「攻め」のないキリスト教? −井草晋一−

・写真:葬儀の朝_教会の空
   (能勢川バイブルキャンプ_2020-11/26)


 

ピヨ バイブル ミニストリーズ
 代表 井草晋一

・コルネリオ会教職顧問(関西)
・SALTY 論説委員
・日本メノナイトブレザレン教団
 武庫川キリスト教会 協力牧師

 

「攻め」のないキリスト教?

~「促し」をしているのでしょうか?~

● コルネリオ会(防衛関係キリスト者の会)
 12月例会メッセージ(2020-12/12 )

 最近、「コロナ後のキリスト者・教会の働き」について思い巡らすことがあります。
 2020年1月以降の「新型コロナウィルス感染症」の世界的蔓延と、11月以降の第三次の感染拡大の中で、日本の私たちも、また、世界の全ての国々の人々も、トンネルの出口が見えないような苦難と大きな試練の中をぐぐり抜けている、まさに「今」です。
 けれども、そのような中で、もしかすると、キリスト者として、あるいは、地域教会としてキリスト教信仰における最も大切なものを忘れかけているのではないか?、と最近、特に思わされました。


「攻め」=「促し」
 私は、中学2年の時からですので、かれこれ55年ほど剣道の練習を続けています。
兵庫県川西市の総合体育館での練習に25年前から参加していますが、時々、練習の合間に93歳の師範から折りに触れて一言二言での大切な教えを受けます。
 その中で、何回か「攻めのない剣道は、剣道ではありません」と言われたことがありました。
 中段に竹刀を構えて、相手と竹刀の先5、6センチくらいを合わせる「一足一刀の間合い」から相手の右小手を攻めながら、相手が出ようとした瞬間を、まさにそこに生じる「隙」や、「虚実」の「虚」の部分を打突するわけです。「攻め」ていれば、相手が撃ち込んできても先に打突することができ、また、わずかに後ろに下がれば、間合いを切ることもできます。
 思いますに、キリスト教の信仰や福音宣教の領域でも「攻め」がないと人々をキリストに勝ち取ることはできません。キリスト教の信仰における「攻め」とは、「あなたの罪からの救い主、イエス・キリストを信じませんか?」との「促し」であると言えます。

 11月末に、5年前まで20年間牧師として兄弟姉妹の皆様とともに歩んだ教会で行われた、一人の姉妹の葬儀に列席する中で、このことを思わされました。葬儀の最後の遺族のあいさつで、召天された87歳の姉妹のことを、その長女のご主人が冒頭で次のように話されたのです。

「私の信仰生活、クリスチャン生活も50年を超えましたけれども、その中で数々の神様との出会い、救いのお証を聞いてまいりました。しかし、母親の神様との出会い、救いの証は「そんなことある?」、と突っ込みたくなるような、神様の濃厚な取り扱いの中に救われてクリスチャン生活を始めました。母は、そんなに自分の苦労話を好んでするタイプではなかったのですけれども、いろいろ想像するに、随分とにわかには想像、理解できないほどの苦労と涙を流してきたかと思うのです。しかし、今日までの23年と3ヶ月のクリスチャン生活におきましては、それにあまりのある恵みと慰めと励まし、愛を受けてクリスチャン生活を過ごさせていただいたことを、今、私たちも嬉しく思い起こすことができます。・・・」

 この姉妹は、病室で信仰を持たれたご主人の傍らで、あらためて牧師から「いかがですか?、あなたも救い主イエス様をお信じになりませんか?」と促された時のことを、教会の祈祷会や年配者の集いの中などで、次のように証しされておられました。
「牧師さんから問いかけられた時に、体の中から、かーっと熱いものが込み上げてきて、『はい、イエス様を信じます。』と叫ぶように答えていたのです。」
 
戦士不在のキリスト教会?
 帰宅してから、葬儀の感想とともに、次のような一文を facebook に記しました。
「・・・今、振り返ると、ちょっと強引とも思える「促し」の中で、あの方も、この方も、病床で、また、人生の最後の時に、また、不思議な出会いの中で、イエス様を信じられたことを思い返します。「ツッコミ型」でも「洞察型」でも「慎重型」でも、神は欠けのある者をあえて用いてくださいますが、その要となるのは「救霊への思い」や「魂への情熱」、この一点にあるように思う昨今です。たとえ、そのような上手な表現でなくても、それが「使命感」であっても、職務上(牧師、などなど)や与えられた奉仕の立場上であっても、なんでも良いので、「促し=攻め」をしていきたいものですね!」
 すると阪神地区で親しくしていただいている、一人の先輩の牧師が次のようにコメントを下さいました。「エペソ書の武具の中でも、唯一攻撃用は、みことばの剣、攻めなとね。それにしても、今は戦士不在のキリスト教会、みんな看護兵ばかりですね。どうしたわけでしょう。」
 
求められている「キリストの戦士、勇士」
 今の社会的な状況や人々の傷や痛み、置かれている境遇を見るにつけ、私たち全てが看護兵のようになっているのかもしれません。あらためて「攻めのあるキリスト者」、「戦士、勇士」とならせていただきたいものです。


「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」(マタイ4:17)
 
「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」(マタイ28:19)
 
「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。
 忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい
。」(テモテ第二 4:2)

 

 

 

・写真:葬儀の朝_教会の空
   (能勢川バイブルキャンプ_2020-11/26)

賛美(開会):「入れまつる家あらず」
      (新聖歌:87番/聖歌:137番)
賛美(閉会):「み民よ戦え」 
      (新聖歌:455番/聖歌:512番)