2020年9月12日のコルネリオ会(防衛関係キリスト者の会)の例会(オンライン)で語られた、スティーブ・タウンさんのメッセージ(第2回)です。
米陸軍退役大佐
スティーブ・タウン
「軍に仕え、信仰を最優先に」(2)
-2020.9.12 コルネリオ会での証-
<第2回>
<第1回より> <—– クリック
3.ミサイル将校として軍に仕える「神の恵み」
そして日本で1年間、日本語の勉強(横浜の米軍語学研修所)の機会も与えられ、さらにハワイ大学大学院でも日本語学を学ぶことができました。1990年に日本勤務となりました。
その後、在日米陸軍で日本語専門将校として働きました。通常は2年間日本で勤務したら本国に戻ることになっています。
しかし、1991年当時、湾岸戦争が行われていたので、私は、ミサイル防空専門将校の経歴から、陸軍司令部から中東湾岸のイラクの部隊に新たにパトリオット部隊を新編するので、パトリオット部隊司令官として勤務するよう依頼を受けました。
私は、日本国を選び、日本語の勉強をさせて頂きましたので 日本を離れると語学特技が失われてしまうので私は断りました。しかし、ほとんどの米軍将校達は、「そのような断ることを言う者を聞いたことがない。折角与えられる司令官職なのに」と言われましたが、日本に残りたいと、私は祈りました、これは“神の恵み”であると思いました。
そして1992年、一旦米陸軍を除隊し、直ぐに米陸軍予備役将校として在日米軍司令部のある座間キャンプの渉外部長になりました。そこから私が日本に長く住むきっかけとなり、1990年以来日本に住むことになりました。これは、“神の恵み”と考えます。このような私の軍歴は、米軍ではあり得ないのです。
ですから私が子供のころからの思いを神様がちゃんと聞いてくれて、今ここ日本に住ませて頂き、神様に支えられていることに心から感謝しています。
横浜の米軍語学研修所で学んだ後、座間の在日米陸軍司令部渉外部長の時に、長野県の野尻湖に別荘を建てました。1997年の夏休みにその別荘で火事がありました。その火事で最愛の娘のメイが亡くなりました。基地の従業員からは、「あなたは、なぜアメリカに戻らないのですか」と言われました。しかし、私の子供が日本で亡くなったことは、“神の恵み”ではないかと思い、アメリカには戻りませんでした。
それまで妻はあまり日本を好きではありませんでしたが、その事から妻も絶対日本から離れたくないと感じて、それ以来私達家族は、みんな日本にずっと暮らすことを決めました。
メイが亡くなって、私たちの子供は ヘザーとジエシーの二人となり、その夏に野尻湖で聖霊を受けて二人ともクリスチャンになり、今も我が子供達二人は、この日本で宣教師として働いています。
ですから、私の家族の中でも“神の恵み”が見られることは非常に印象的です。
火事があった当時は本当に大変でした。みんなは、私の顔を見るだけで涙を流す人たちが多かったのです。そしてその後、当時の補職(座間の在日米陸軍司令部渉外部長)から、東京のハーディバラックス(六本木:在日米陸軍司令部・赤坂プレスセンター)の連絡将校になり、日米関係の仕事を4年間続けました。
その時に海兵隊の大佐が僕のところに来て「ちょっと話したい」と言われ、この人が立派なクリスチャンだったので2時間位話しをしました。彼は、自分が沖縄海兵隊基地司令部渉外部長であると言いました。沖縄海兵隊には、日本語を話すことができ、将校でクリスチャンという方がいませんでした。沖縄では当時、非常に大きな問題が発生していました。彼から在沖米海兵隊司令部の外交政策部長になるように説得され、私が沖縄に行くことになりました。ここで、面白いのですが、中野久永兄(現・コルネリオ会 副会長)が同じ時期に私と一緒に沖縄にいました。本当にいろいろな問題に直面しました。しかし、神様にうまく仕えられたことを感謝しています。
<第3回>に続く <—— クリック
●「コルネリオ会」ニュースレター(No.155) 2020年12月 掲載
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スティーブ・A・タウン
その後、大佐で除隊。軍事会社に転身した。
宝島社:2018年 7月3日 発行
(著者プロフィール より)
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●「軍に仕え、信仰を最優先に」
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