「亡国の環境原理主義」から思う似非キリスト教 −明石清正−

明石清正
SALTY論説委員
カルバリーチャペル・ロゴス東京 牧師
ロゴス・ミニストリー 代表

 

 COP26(国連気候変動枠組条約第26回締約国会議)が、10月31日から11月12日まで、英スコットランド・グラスゴーで行われている中で、本書を読了しました。内容は、著者ご本人が以下の記事で書いています。

亡国の環境原理主義

 個人的に、地球温暖化問題には苦手意識があり、避けてきた問題でした。一つに、あまりにも二極化が進み、気候変動に対する懐疑派との対立が非常に大きいことがあります。もう一つは、数字との戦いがあり、私は理系肌では全くないので、避けてきました。

 しかし、もはや個人的には避けられない問題かもしれない、いや、世界規模の諸問題に通底する考え方が一つの線につながってきた思いがし、それを言葉にして述べる勇気を得ました。

 きっかけは、たまたま、教会に、関連する分野をお仕事にしておられる方がいることです。彼が私に、「環境”正義”、気候”正義”という言葉が欧米で使われています。その正義って、キリスト教があるから出てくる発想ですよね?」と感想を求めてきました。日本では二酸化炭素を「減らす」ことで貢献ができるというのが理解だけれども、二酸化炭素自体を悪と見なす二元論が気になっている。それは、もしやキリスト教から来ているのでは?ということです。

 一般の日本人で、この分野に詳しい人であれば、キリスト教が背後にあるのでは?という発想をするはずだと、私も強く思いました。案の上、本書では、次のようなくだりがあります。

「キリスト教一神教文化も影響を与えているでしょう。欧州の環境関係者の発言、行動 からは、「自分たちこそが地球環境のことを考え ており、世界に範を示すとともに、他国を導かねばならない」という 唯我独尊性を感ずることがしばしばあります。

かつて十字軍を派遣して異教を征伐し、キリスト教布教のために世界中に 宣教師を派遣した熱意を彷彿とさせられます。環境原理主義者は彼らの主張に疑念を差し挟む人を「気候懐疑派」として糾弾することが通例ですが、 異なる意見に対する寛容度の低さは中世の異端審問 と通ずるものがあります。」

 キリスト教の文化の影響、確かにあると、自身がキリスト者であるのでよくわかります。しかし同時に、それがそのまま聖書の教えでも、キリストの教えでもなく、むしろ歪められた、異型とも言うべき思想でもあると言えます。結果として、反聖書的、反キリスト的でさえあるのです。

共産主義は、キリスト教の異型

 いわば、「似て非なるもの」と言ってもよいでしょう。キリスト教で似ているけれども全く異質なもので分かりやすいのは、共産主義です。思想の父祖マルクスは、キリスト教に改宗したユダヤ人を両親に持っていました。

 共産主義には、神の国の正義と平和をユートピアにしている、その物真似をしていることが、明らかに分かります。しかし、共産主義は、人を神と取って替えました。聖書は、徹底的に天地を創造した神が支配している世界ですが、そこを人に取り替えたため、人が自分の力で正義を体現化させ、平和を造り出し、ユートピアを作るように変えられました。

 そこにあるのは、人間が善であるという性善説です。しかし聖書は、徹頭徹尾、神が善なる方であり、人は神のかたちから堕ちてしまい、罪を宿してしまい、善を行なうことができないと教えています。そこで、救いも人にはよらず、神が人となったキリストが身代わりに、その罪を取り除くために、十字架につけられ、そしてよみがえり、そのいのちによって、ご自分に信頼する者たちを生かす、という話なのです。徹頭徹尾、神の国は「神」によるものである、「人」はへりくだって歩み、その中で柔和と正義を求めます。

 共産主義にあるような、人が自分たちの力で闘い、革命を起こして正義と平和を実現するという考えは、「私は神のようになろう」とした、サタン、悪魔そのものの考えなのです。神のようなことを、自分でやろうとして、高ぶって堕した天使が悪魔なのです。したがって、偽りの神による教えであり、共産主義はキリスト教の異端的要素を含む思想であり、悪魔的であり、偽りなのです。

参照記事:「週の真ん中ストレート(8)共産主義はキリスト教系の異端思想からはじまった

植民地主義と地続きの、欧米「人権・環境」主義

 それに通じるものが、西欧のキリスト教から出てくるものには多いです。帝国主義による宣教を日本人はしばしば問題に出しますが、確かにその問題がありました。(参照記事)神のみが正義なのに、自分が神の代理人になったと思い込み、独善の中で人々を教宣しようとす。その発想が、西欧発の、特に「リベラル」と呼ばれる世界には色濃く出てきます。

 かつては植民地主義だったものが、新しい国際秩序で始まった戦後には、人権問題や環境問題、動物愛護にも、それから今はLGBT運動にも出てきますし、これこそが正義だとして、科学的見地でさえ政治化し、哲学やイデオロギーに突き動かされます。

 本書では、ナチズムが、環境保護に深く関わる歴史があることに言及しています。加えて、ウィキペディアによれば動物愛護運動もナチズムが推進しました。そこで反ユダヤ主義ともつながり、ユダヤ教にあるいけにえの制度を悪とみなします。環境問題や動物愛護の急進的活動家に、ファシズム的要素が見えるのは、このためです。

 さらに、今の環境保護運動が実は、新たな南北問題となっていて、裕福な先進国の人々が、安価で安定したエネルギーを使わせず、負担を、発展途上国の国々の人々に強いている構造を作っているということは、私も前から気づいていました。そういった意味で、地球温暖化は起こっていないという懐疑派とは理由の違う、懐疑派でした。(しかし、二酸化炭素を減らした高技術の火力を途上国に提供するという日本の方針に強く賛同しています。)

そもそも先進国より電気を使っていない状況で、現在の電源を使わないように、と迫るのは先進国の横暴になりかねない。
(「世界の南北問題、再び」)

By European Parliament – This file has been extracted from another file: Greta Thunberg urges MEPs to show climate leadership (49618310531).jpg, CC BY 2.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=88931682

それ以上にショックなのがこの書簡に賛同する世界の活動家、科学者、セレブが数千人いるということだ。・・自らはセレブとして安楽な暮らしをしながら、貧しい人の生活水準に必須のエネルギーを奪うかのような提言に名前を連ねるのは偽善でしかない。提言では「民主主義を守れ」「脆弱な人を守れ。経済の不公平を引き下げよ」と書かれている。しかしグレタ等の主張している化石燃料全廃は途上国の貧しい人の生活水準の向上を阻害し、不公平を永続化させるだろう。
(「環境原理主義は人類を不幸にする」)

聖書は、人間の理性で分からない矛盾を内包

 人間には、分からないことが現実の問題として次々と起こります。それを「分からない」というところで終わらせばよいのに、そこに善悪を設定して、白黒に色分けして、それに基づいて支配していこうとします。つまり、人間が理性によって支配するという思想が、キリスト教が歪められた形で欧州で始まり、神への信仰が理性に取って替わり、しかし、キリスト教が形骸として残っているので、似て非なるモノを、日本の方々はしばしば、「キリスト教」と呼んでいるのだと思います。

 しかし聖書は、どのような世界なのでしょうか?自然は神の支配下にあります。神のみが善であり、被造物は神の造られたものであり、バランスの中に存在しているとみています。どちらが善で悪というものは人には判別できず、明らかに罪だと神が宣言されているもの以外は、あいまいにされています。

 世界には、相対する二つのものが同居していることが現実としてたくさんあります。聖書もその世界を描いています。人間の理性では、二つは矛盾していてあり得ないというものも、現実にはどちらもあるとして人は受け入れているのです。この分らない部分への耐久が、信仰とも言えるでしょう。

 ところが、神への素朴な信仰が取り去られました。神のことばである聖書をさえ、分析化して、人間に理解できる体系として理解して、それが絶対的な真理だとみなしていくのです。これが、西欧キリスト教の世界、文化にある弊害です。(参照記事

「環境原理主義」に振り回される世界と日本

 著者は、地球温暖化現象は起こっているという立場です。懐疑派ではありません。しかし、まだ分からない部分がまだまだあり、そこは多様な意見があっておかしくないとする立場です。しかし、そこに「正義」が入って、科学的、合理的見地から離れていて、恣意的な思想が、もっと具体的に言うと、極左が、緑の党や、活動家の考えの背後にも色濃いことを、「環境原理主義」という言葉で言い表しています。

 そして欧州諸国がこの環境原理主義に基づいて動いており、現バイデン政権も、民主党内の極左の環境原理主義に引きずられ、欧米がその方向に向かっていることを指摘しています。最も二酸化炭素を排出している中国は、そのはざまで、強かな外交を展開しており、非炭素の技術で漁夫の利を得ている姿も本書で説明しています。そして日本が、この環境原理主義に飲まれている様子を描いています。

COP26首脳級会合で演説する岸田文雄首相=2日午後(日本時間夜)、英北部グラスゴー(ロイター)

 今回のCOP26で、岸田総理大臣の演説を聞いて、CANという環境活動家の団体が、日本を第二位の「化石賞」を受賞とのことで、揶揄しました。高技術による炭素を減らした火力を発展途上国に広めようとしているからです。減らしても、炭素そのものが悪とみなしているのために、そういった発想になるのです。しかし、日本の現実的アプローチを地道に取っていることが、「化石賞」と呼ばれているのだから、むしろ勲章だと、著者は思っているようです。

完全なエネルギーはない現実

 ところで、著者の有馬純氏は、「国際環境経済研究所」の主席研究員でありますが、この理事を務めている竹内純子女史は、「完全なエネルギーはあり得ない」という旨を、ある講演で話していました。この現実を見つめていくことこそが人間に大事なのですが、それが耐えられないのが人間の性ですね。

 したがって、キリスト教会でも、いわゆる環境正義や気候正義に乗っかって、それが教会が寄り添っていくべきことだと主張する人々もいますが、私は、むしろ、この「分らないけれども、一緒に悩む」ことのほうを選び取りたいです。