戦後民主主義の初めの愛 −亀井俊博−



 

 

 

バイブル・ソムリエ:亀井俊博

「西宮北口聖書集会」牧師
「芦屋福音教会」名誉牧師

「戦後民主主義の初めの愛」 2021・12・1

戦後民主主義の揺籃期に学ぶ

 本誌編集委員の方から、NHK R2、8/9~9/6、5回カルチャー・ラジオ、ラジオ・アーカイブス「声でつづる昭和人物記」で、“丸山眞男・南原繁と戦後日本社会” と言う放送があるので、お聞きになってはいかがとお勧めを頂きました。

 戦後民主主義揺籃期の民主主義普及に尽力された、故丸山眞男東大政治学教授、氏の恩師、故南原繁元東大総長のお話しのアーカイブスでした。昭和史の作家保坂正康氏の解説があり興味深く拝聴しました。以下、その紹介と私の感想です。

・カルチャーラジオ NHKラジオアーカイブス「声でつづる昭和人物史~丸山眞男」1 (2021年8月2日 再放送/「丸山真男と戦後日本  第1回 民主主義の発見」1996年11月18日放送、ETV,聞き手:社会教育史家、久田邦明さん)

丸山眞男の民主主義政治学

 まず 丸山眞男(1914~1996)は、戦争に召集され陸軍の1兵卒として、明らかに軍に危険思想家と目され、命の危機にさらされる部隊に配属、何とか命長らえ戦後東大助教授に復帰。民主主義思想による、戦前の軍部ファシズム(全体主義)批判の名著「超国家主義の論理と心理」でデビュー、戦後民主主義の旗手となった。

 そもそも敗戦後、軍国主義から民主主義に政体が、大きく変わり民衆は大変動揺していた。天皇のため命を捨てよから、あなた方国民が主権者だと突然言われても、それは困惑します。そこで全国規模で今でいう市民講座が開かれ、丸山は東大政治学の教授として、“庶民大学、(静岡県)三島教室”(三島神社社務所)等、各地の市民講座の講師として招かれ、民主主義の意味を説いて回ったと言うのです。それこそ、岸田首相の言ではないが、本当に車座になって、真剣な市井の人々の問いかけに応答した。丸山はそれまで、東大の象牙の塔の中で政治学を研究してきたが、民衆と膝附併せて政治を論じた事などなかった。しかも主婦や、八百屋の親父の素朴で真剣な質問責めにあい、中にはどうしても納得せず、こたつに入って熱く議論したと言う。“何の教育もない自分らが主権者だからと言われても、国の運命を決める政治などできる訳がない。衆愚政治になるんじゃないか?また大衆を扇動する政治家が現れるんじゃないか?ちゃんと教育を受けた、偉い人が政治をすればいいのではないか?”等の質問に直面し、高等教育を受けた学生達とは、全く異なる率直な熱い議論であった。

後で振り返ると、明治初期の自由民権運動の沸騰と、敗戦直後の熱い民主主義議論は日本の歴史で稀な、民衆の政治参加にホットな時期ではなかったかと丸山は評価する。

 この時の体験は丸山の以後の経歴に大きな影響を及ぼす。丸山は恩師南原繁の東大政治学の学統でも、西洋政治学のアカデミックな学統は福田歓一が継承。それに対して、日本政治思想研究の丸山は、前記体験から市民と接触する、ある意味ジャーナリステイックに、日本の現代政治に発言を続け、戦後民主主義のオピニオン・リーダーとなった。これが、後に1960年代半ばから激化した、全共闘運動から戦後民主主義の欺瞞とその立役者丸山として、攻撃される要因になったのは歴史の皮肉である。

 そして、丸山は日本政治思想史研究をバックに日本的民主主義の定着を考察。明治の自由民権運動、大正デモクラシー、さらに江戸時代の民主思想にまで遡って研究。さらには福沢諭吉に、独立自尊、個人の確立を教育と学問によって養成し、己の信念を貫く人間像に、日本型民主主義者のモデルを見出だす。

 さらに“民主主義は永久革命”で、民主主義のリアリズムには、完全なものはなく、暫定的なものであり、完全な民主主義を体現した制度は過去も、将来も存在しない。永久に民主主義を求め続ける、永久革命として民主主義は存在する。常に求めていく努力こそ民主主義の核心だ。心理的にはしんどいが、他の制度よりはるかにましだ、と戦前自身が受けた全体主義の悲劇的体験から説く。

 さらに最晩年には、民主主義は単なる思想や運動ではなく、実定法の裏付けがなければ容易に全体主義やポピュリズム衆愚政治に転落する。そこでヨーロッパの様に、民主主義政治の裏付けとなる、正統正典“聖書”に基づくキリスト教と言う精神的バック・ボーンなき日本では、「日本国憲法」を聖書の様な役割を果たす民主主義の正統性を確保する根拠(準正典?)とすべきであると、考えたようだ(この点は、SALTY誌2021・7・22(以後2回連載)の拙論“最後のマエストロ達”の丸山眞男論に詳しい)。

南原繁の民主主義政治学

 南原繁(1889~1974)は、東大で政治学の、それまでの国権イデオロギー的「国家学」から科学的「政治学」への転換を説いた、小野塚喜平治教授に厳密な学問を学ぶ。他方青春の煩悶をひっさげ、無教会キリスト教の内村鑑三の門を叩いてキリスト者となる。さらにアララギ派の歌人としても歩む(歌集「形相」)。以後、学問・教育と宗教と芸術が南原の生の三本柱となる。

 大学卒業後は内務省に入り、官僚として行政の現場を体験、労働者保護を目指す労働組合法を起案、資本家と労働者が共通地盤で話し合う法律制定に尽くすが、時代に先駆けすぎて採用されず。もう一度学問の世界に戻り、小野塚の元で政治学の基本を学び、ドイツ、フランス、イギリスに留学。当時学界、労働界で盛んだったマルクス主義に疑問を感じ、それに対抗するためカント哲学研究に没頭。

 時代が軍部台頭で激しい全体主義政治支配の嵐が吹き荒れる中、53才で処女作、1942年(昭和17年)ナチズム批判の書「国家と宗教」を出版。危険思想摘発で東大教授を追われる同僚続出の中、彼の著作は公然たる軍部・全体主義への批判であったが、“洞窟の哲人”と評される程の哲学的思想展開は余りに内容が難しすぎ、批判・追放を免れたと言う。

 戦後、軍部に節を屈しなかった東大教授として評価され、1945年(昭和20年)12月戦後初の東大総長に任じられ、名総長振りを発揮。1951年(昭和26年)日本独立のサンフランシスコ講和会議に際しては、吉田首相の単独講和に対し、全面講和を主張。吉田から“曲学阿世の徒”と批判されたが、異を唱え東西いずれの陣営に所属するのでなく、“永世中立”を唱えた。

 彼の教育者としての功績も大きく、戦後民主主義教育定着に大きく貢献。また戦後まもなく日本国憲法制定、教育基本法制定に深くかかわり、これらが占領軍の押し付けでは決してなく、日本の民主的学者等が深くかかわっていると、占領軍による押し付け憲法論に当事者として係わった者として証言している。

 老境にあって、フィヒテの政治哲学を研究。現代社会科学では「政治学」が最も遅れていると説く。第一に、それは主権国家中心であり、平和的世界秩序が保障されず弱肉強食となる。そこで国際政治が重要となる。第二に、政治道義が確立していない。戦前の軍中心から、戦後は科学技術と経済が社会の関心の中心に変わったが、それらは何のためのものか明らかにしないと、社会は道義的に退廃する。参考になる思想家フィヒテは民族主義を説いた。それは外国と対立し戦争の方向に向かう民族主義ではなく、人間の自由を保障する文化共同体を目指すものだ。まさに南原自身が制定に深くかかわった「日本国憲法」の平和主義・国民主権・基本的人権尊重と、個人の人格形成尊重を説く「教育基本法」こそ、文化共同体としての戦後日本を導く理念である、そのためにも「第二の宗教改革」が必要だ、と説く。

両者に学ぶこと

放送を通じ、大変教えられた事を記します。

 第一に、戦前の全体主義政治から敗戦を機に、戦後民主主義への大転換期に際し、その時の国民の戸惑いと、同時に熱い民主主義への学びへの思いがあった事です。徳川250年の封建体制が崩壊し、混乱状態にあった明治維新初期、国権主義者と民権主義者が熱く論じあい、民権憲法が次々民衆から提示され、遂に政府は国権的ではあるが、1890年(明治23年)大日本帝国憲法を制定し、民主主義に配慮せざるを得なかった。このホットな民衆の自由民権運動は国権政治定着後も、1910~20年大正デモクラシーとして再燃、さらに軍部台頭で抑圧されたが、敗戦でマグマの様に地下にあった民衆の熱い民主主義学習の運動が全国に展開、それが1947年(昭和22年)日本国憲法に結実された。こう言う日本の政治史の底流に流れる民権主義・民主主義運動を背景として、丸山・南原が、戦前の全体主義と戦い民主主義に命を懸けた政治学者としての歴史的証言は実に重いものがあります。この熱源に触れた事は大きな収穫です。戦後民主主義は決して占領軍から押し付けられたものではなく、明治維新以来(江戸時代にも?)の長い歴史を背景に持つ、内発的な熱い民衆運動の結実であったのです。

 第二に、今年10月に衆議院選挙が終わり、地盤・看板・かばんを代々受け継いでいる世襲議員の当選率は8割とか、日本は民主制から貴族制に実質変質している、民主主義の形骸化が国内政治の危機です。政治を素人市民の手に取り戻すことが求められます。

さらに国際政治では、専制主義政治の中国・ロシア・北朝鮮が勢いを増し、欧米や日本の民主主義体制は劣勢を強いられています。特に中国共産党からの民主体制批判、コロナを制圧するには専制政治が適しているとか、この変化の激しい時代に対応するには、民主主義は時間がかかりすぎ、対応が後手〃に回り、専制主義は俊敏に対応できるとか、民主主義への露骨な挑戦が指摘されています。

復初の説、初めの愛

 確かに、これらの指摘は的を得ています。しかし、我々は民主主義を止めて、日本の深層を流れる国権主義・全体主義・専制政治に先祖返りしてはならない。その道はいつか来た道で、行き着く先は国家の滅びです。第二次世界大戦敗北と言う、高い代価を支払った歴史の痛い経験を忘れてはならない。

 丸山は「復初の説」を説く、敗戦直後、まだ新憲法も制定していなかった時期、その頃の日本人のこころはどうだったか?無謀な戦争への悔悟、しかし同時に軍部抑圧からの解放感、どう将来の国家を再建するか・・食糧難の苦しみの中にも必死で考えていた。この初心を忘れてはならない。これを中国古典にならい“復初の説”と言う。われわれはその中から民主主義を学んだのだ。戦後民主主義は絶えずこの歴史の原点に立ち返る必要がある、と言う。聖書にも「あなたは初めの愛から離れてしまった。そこで、あなたはどこから落ちたかを思い起こし、悔い改めて初めのわざを行いなさい」と記されているのが思い合わされるのです。

 まさに丸山の説くように民主主義は永遠革命なのです。これでいい、パーフェクトな民主主義などないのです。前記の諸課題を内に外に抱えながら、悪戦苦闘しつつ市民一人〃が主権者として日々取り組むべき生き方なのです。しんどいからと言って誰かに主権を預けてはならない。民主主義の核心は自由権です。「自由からの逃走」(E.フロム)と言うが、自由は中々しんどい、専制主義者の誰かが判断・決断し責任を取ってくれれば、民衆は自由のしんどさを免れ、隠れて批判だけして恩恵は享受したい、そう言う虚弱な無責任スピリットでは民主主義は成り立たない。

 最近福沢諭吉の「学問のすすめ」を再読、冒頭“天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず”とある。お上に自由を預けて支配してもらう、これでは人間の差別格差はなくならない、平等も自由もなくなる。専制政治の温床です。天の思想があって、その下に人間は平等なのです。いわゆる天賦人権論ですが、歴史上そんな思想を現実に生きた例はない。ただキリスト教に説く、神の愛の前に平等・自由が歴史上存在しているだけなのです。南原が説いた「第二の宗教改革」により、日本にもっとキリスト教が浸透し、真の民主主義のスピリットが自分のものとなり、絶えず初めの愛に立ち帰り、永久革命としての民主主義の熱源となるように願うものです。

あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。そこであなたはどこから落ちたかを思い起こし、悔い改めて初めのわざを行いなさい」 (ヨハネ黙示録2章4,5節)

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