日米開戦80周年と、淵田美津雄さんの講演 −亀井俊博−

写真:<左> 『真珠湾からゴルゴダへ』淵田美津雄 著
(注1)著書の購入をご希望の方は、文末をご覧ください。

写真:<右>『机上で聞いた神の声』横山一郎 著

 

 

 

バイブル・ソムリエ:亀井俊博

「西宮北口聖書集会」牧師
「芦屋福音教会」名誉牧師

 

「日米開戦80周年と、淵田美津雄さんの講演」 2021・12・5

トラ・トラ・トラ

 トラ・トラ・トラ(ワレ奇襲ニ成功セリ)、1941年(昭和16年)12月8日、帝国海軍が米国ハワイの真珠湾を奇襲攻撃した際の、合図の暗号電文である。アカデミー賞の米映画の題名にもなったので知られている。今年はこの日米開戦の80周年記念の年である。かつての敵国同士が80年後の現在、これ以上ない平和な関係、同盟国になろうとは予測すらできなかっただろう。ここに一文を捧げ平和の礎となられた方々に謝意を表し、この奇跡的な平和関係をもたらされた摂理をもって歴史を導かれる、和解と平和構築の神に感謝をささげたい。

 さて先の暗号電文を発したのが、爆撃総指揮官の淵田美津雄大佐(当時は中佐、1902(明治35年)~1976(昭和51年))である。

 実は、今から46年前(1975年/昭和50年)ごろ、キリスト者実業家で日キ教団堺教会の長老、ギデオン協会、大阪朝祷会員であられた平尾新兄から、同じ堺教会のメンバーで良き証のある信徒伝道者の淵田美津雄兄弟をご紹介したい。是非御教会の伝道集会の講師として推薦します、との事でした。

 当時夫人は、開拓伝道中であった単立芦屋福音教会の教会員であられた関係から、会堂建設始め大変お世話になっていました。平尾兄の御父君は堺教会長老で、博愛病院医師として仁術を施され、路傍伝道もなさったと言う熱心な信徒。その二代目であった平尾兄は、関西学院出身で、実業界に転じる前は航空自衛隊に勤務、航空管制官として奉職されていた。その関係で旧軍人信徒を良くご存知であったようです。

 ソムリエは絶対平和主義(パシフィズム)の田畑忍同志社教授の下で憲法学を学んだ関係で、軍隊を忌避していました。しかし聖書を読むと、神様は人を軍人であろうがなかろうが関係なく愛される方であり、イエス様も百卒長の信仰を高く評価されている事が分かり(ルカ7:1~10)、また現在世界は天国ではなく、犯罪も病も死も戦争もある地上であり、それに対処するため、警察、軍隊、病院、消防等が必要である。勿論行き過ぎた警察国家や、軍事国家は良くないが、国内治安、外国の侵略への防衛等は当然必要である(ローマ13:1~7、詳しくは後日「平和論」公表予定。中国の軍事的脅威を前にして福音派も避けて通れない課題です)、と言う事で講師としてお迎えした次第です。

 余談ながら、軍人信徒と言う事で、現在朝日新聞の連載小説「また会う日まで」を興味深く読んでいます。晩年福音派の朝顔教会で名牧師として尊敬された井出定治より受洗、忠実な信徒として生涯を全うした、有名なフランス文学者福永武彦を父に持つ小説家池澤夏樹の作で、父方の祖父の兄にあたる海軍少将秋吉利雄の生涯を描く。秋吉は聖公会信徒で長崎鎮西学院から海軍兵学校に進み、東大理学部で天文学を治めた理学博士、海軍水路部で海図作成に意を注いだ人物。夫人のヨ子(よね)は活水女学校出身でクリスチャン・ホームを築く。秋吉はキリスト者にして、軍人、科学者として、普通なら矛盾と考えられる人生を戦前・戦中・戦後を信仰者として生き抜いた稀有な人物です。陸軍と違い、政治に関与しないサイレント・ネービーらしく表向き時局に阿ることなく軍務に精励し、内面は国際派のリベラルな考えの持ち主で米国との戦争に批判的、信仰者としての思考、証しの展開に興味は尽きない。また秋吉の様なクリスチャン・ホーム出身で教育類型、しかも戦時中を生きた軍人信徒と、淵田の様な戦後のパウロ的回心類型の軍人信徒を比較しつつ併せ読むと、キリスト教信仰の厚みを感じる事が出来ると思う。

 本題に戻ります。以後一期一会の知遇を得た者として、淵田さんと記すことをお許し下さい。

淵田美津雄元海軍大佐の印象

 初めてお会いした淵田さんは、上背高く、がっしりとした体つきだが戦前少年たちの憧れだったと言う海軍軍人のスマートさでした。既に70代の高齢であったが健康そのものでした。お話しは端的で明快、頭脳の明晰ぶりを示していた。戦前の海軍軍人が今なら東大・京大クラスのエリ-トであったと聞くが、お話しの節目〃に“分かったか?”と上官が部下に諭すような語り口に、実感したものです。礼拝、昼食、午後の伝道講演会と半日親しくお交わりを得ました。

 淵田さんについては毀誉褒貶あることを存じていますが、歴史の一コマとして、日米開戦の当事者の直接証言をご紹介できる、数少ない立場に私がある事を思い、半日の思い出を記憶の限り記します。また淵田さんの執筆された文書「真珠湾からゴルゴタへ、わたしはこうしてキリスト者になった」(ともしび社、大阪クリスチャン・センター)の記述と異なる面もありますが、私も高齢になり記憶違いがあるかも知れませんので、ご容赦下さい。以下淵田さんのお話しは“ ”の中に、私の意見は地の文で示します。

淵田さんの講演内容

 淵田さんは、“自分は軍人であったから、常に戦場での死を覚悟していた。しかし実際死に直面したのは4回ある、しかもそれらを切り抜けて今も生きておられるのは神様のお守りと、イエス様の福音を伝える使命のためであったと今にして思う”、と話を切り出された。

第一の死の危機

 “先ず第一の死の危機体験。海軍兵学校を出て軍務につくうち、これからの海軍の戦いは、艦隊戦ではなく、航空戦が主力だと思い、飛行機乗りを志願した。ある時、空母から飛び立ち訓練を終え、帰艦しようとしたが、方向を見失い焦っていると、燃料が後僅かになった。すると雲間遥かに母艦が見えた。しかし到底燃料が足りない。このままでは海中に不時着すればいいが、海は荒れており死を覚悟した。その時不思議な声が、‘上へ、上へ’と言う。その指示に従い高度を目いっぱい揚げた時、プロペラが止まった。後は運を天に任せ、滑空で母艦めざした。そして無事着艦命からがらの経験だった。後で分かった事は、飛行機は高度の距離だけ水平滑空できると言う基本の知識だった。そんな飛行機乗りの基本知識も危機にはパニックで吹っ飛んでしまう。それにしてもあの声は誰か?当時はお母さんの声だと思ったが、信仰をもってからはイエス様が守って下さったと納得した“そうです。

第二の死の危機

 “第二の死の危機。日米開戦やむなしと決せられ、ハワイ真珠湾の米太平洋艦隊奇襲攻撃が秘密裏に計画、第一航空艦隊が編成され猛演習が始まった。真珠湾に似た地形の鹿児島に雷撃機が多数集結。大洋での雷撃は慣れているが、港湾は浅瀬で雷撃機から落した魚雷は海底に突き刺さってしまう。だから超低空で魚雷を落さねばならず、そうすると高い波に攻撃機の翼が当たると衝撃で墜落する危険性があるので熟練が必要だ。そこで鹿児島市の沖合に超低空で模型の魚雷を落し、そのまま街の家々の屋根すれすれに爆音を響かせ訓練するものだから、市民は恐怖だっただろう。猛訓練を終え、いよいよ北海道単冠湾に航空艦隊が集結、悪天候の中一路ハワイを目指した。

 やがて運命の12月8日、淵田さんを総指揮官に、爆撃隊が母艦を後にした。艦橋には1905年5月27日日本海海戦以来のZ旗(「皇国ノ興廃コノ一戦ニ在リ、各員一層奮励努力セヨ」)が掲げられており、日本の命運を決める戦いに気負いたった。やがて雷撃・攻撃機、戦闘機の隊列が整い、総指揮官機として先導するが、ハワイ島の方角が分からない。そこでアンテナを色々な方向に向け受信すると、突然ジャズ音楽が飛び込んできた。これだ、この方向だ、ハワイ島はまだわれわれに気づいていない、と安堵したと言う。そして雲間に島影を発見、‘トトト(全軍突撃セヨ)’の電信を打ち、風防を開けて信号弾を発し、戦いの火ぶたが切られた。かくして猛攻撃が成功し米戦艦4隻大破、2隻中破、米太平洋艦隊行動不能に陥れる、大戦果を挙げて帰艦する事になった。‘トラ・トラ・トラ’の暗号電を発し、上空に集結すると失った機が多くあり、胸痛む。しばらく飛ぶと、足元でバシンと言う音がした。実は攻撃中、米軍もいち早く応戦して来て、その対空砲火の弾が機体を貫き、淵田さんの目の前をビューと一条の赤い線が走ったと言う、その際足元に前席の操縦士が握る操縦桿から伸びて、後方の方向舵に繋がる鋼鉄線を数十本捩ったワイヤーに弾が当たり、半分ほどにちぎれた。それが飛行中にさらにバシンと切れてあと数本だけになった。いつ切れるかも知れない、そうなれば先ず帰艦は無理だ、この時も死を覚悟したが、前席の操縦兵には告げなかった。なんとか切れずに無事着艦、まさに命の綱だったと言う。これも神様の守り以外考えられない” と言う。

 攻撃は成功したから艦隊は引き上げると南雲忠一司令官は言うが、爆撃命令は敵空母絶滅であり、この時米空母団はハワイにおらず、是非外洋を索敵して攻撃すべきと、源田実甲航空参謀や淵田が進言するも退けられ、米空母は温存され、後の日本軍敗退の因となる。南雲中将は1944年フィリピン・レイテ沖海戦でも判断ミス、いつも司令官はその資質が問われる。現代も同様です。

“また後日、ハワイ奇襲が、外務省の手違いで宣戦布告前であり、卑怯者の汚名を着せられ、米国民の合言葉リメンバー・パールハーバ(真珠湾を忘れるな!)と言う復讐の誓となった事を知り、武人の名誉を甚く傷つけられた” と、嘆いておられた。

第三と第四の死の危機

 第三の死の危機。その後第一航空艦隊は、翌1942年1月ラバウル攻略戦支援、2月ポートダーウイン攻撃、3月ジャワ海掃討作戦、4月インド洋作戦、連戦連勝で世界最強の機動艦隊であった。しかし同年6月ミッドウエー海戦の際は、虎の子の空母4隻を失い日米の立場が逆転した転機であった。しかも淵田さんは、“参戦できず空母赤城の艦底の医務室で、虫垂炎の手術を終えたばかりでベッドに唸っていた。しかし艦が傾き始め、どうも様子がおかしいので、痛む腹を抱えながらデッキに這い昇ると、赤城は猛攻撃を受け沈没寸前、意を決して海中に身を投じ、両足骨折の重傷を負いながら漂う中、僚艦に助け上げられた、奇蹟以外の何物でもない” と感慨深げであった。

 第四の死の危機。その後本省に戻ってしばらくした時、広島に新型爆弾が投下、甚大な被害が出た。“調査に赴けと命令が出て、原爆投下直後の広島に乗り込みその惨状を調査。後に大量の放射線を浴びており、生命の危機があると指摘されたが、これといった兆候もなく、これも神様の守りと信じます”、と言う。

この様に、“単に運が強かったでは済まされない、度重なる死の危機からのしかも、最前線の軍人であった自分が命長らえたには、意味があった” と言う淵田さんの証を最後に記します。

回心の証し

 敗戦時連合艦隊航空参謀の軍務を解かれ郷里の奈良に帰った淵田さんは、“戦後は農業に努めたが生活は厳しく、友人笹川良一から援助を申し入れられたが、かけ事の上前をはねた金は頂きたくないと断った” と、笑っておられた。もちろん笹川氏の功罪評価は一面的にはできないものがあります。“一時戦犯容疑に問われたが追及されず、ある時GHQから呼ばれ上京、廃墟となった銀座を歩き、日本も原爆を造ってワシントン、NYに落としてやると軍人らしく復讐を誓ったと言う。そう言う時街中で一枚のパンフレットをもらい読んだ、それがジェイコブ・デセイダー米軍曹の‘私は元日本軍の捕虜だった’というキリスト教のトラクトだった。1942年4月18日、日本最初の帝都空襲を企てたドーリットル爆撃隊のクルーだった軍曹は、不時着し捕虜となった。収容所で聖書を読み回心し、神に‘自分の命をお守りくださるなら、今度は爆弾でなく神の愛を以って日本に来させてください’と祈った。そして神は祈りに答えられ戦後捕虜収容所から解放、帰国後神様との約束通り、神学校に学び、日本へ宣教師として帰って来て、爆弾ではなく神の愛を届けに来たと言う内容であった。

 興味を抱いた淵田は古書店で新約聖書を求め、福音書を読み、「汝の敵を愛せよ」のイエスの言葉に驚嘆、原爆を落とされたらやり返す、自分の狭量な復讐心では人類は滅亡する以外ない。敵を赦す以外に人類の救いはない。そしてイエス最期の十字架上の祈り「父よ、彼らを赦し給え、かれらはその為すところを知らざればなり」を読んだとき、思わず「父よ、淵田を赦し給え、淵田はそのなすところを知らざればなり」とイエス様が、自分の罪の赦しのため祈られたように感じた。そして心服した堺教会の斎藤敏夫牧師より手引を頂き、信仰告白受洗しキリスト者となる。以後、神の召しを受けて米国に渡り信徒伝道者として各地で講演。‘真珠湾攻撃隊長来る’の看板を立てると、戦争直後の事とて日本軍と直接戦った元兵士も多く、リメンバー・パールハーバーの憎しみに満ちた元軍人はじめ市民が押し寄せ、淵田さんが登壇すると殺気立って足を踏み鳴らしてブーイングの声を挙げたと言う。しかし彼がその回心の証を語り、真珠湾攻撃を赦してくれと結ぶと、壇上に聴衆が押し寄せ、中には松葉杖の傷痍軍人が上がって来て彼をハグして、日本人も広島を赦してくれ、と和解に涙した” と言う。

 日本では元軍人が淵田さんの回心や元敵国伝道に裏切り者扱いにし、元特攻隊員が白刀を以って抗議に推しかけたと言う。そこで淵田さんは米国市民権をとって米国人伝道に尽くした。一方デイセーザー元軍曹は宣教師として日本伝道に尽力、私が親しくして頂いた 島田巌 前任牧師が牧会された、日本フリー・メソジスト教団 神楽町教会はデイセーザー宣教師の設立した教会です。(注1)
やがて淵田さんは晩年、大阪水交会会長となり、病を得て主の使命を全うし神の御許に召されたのです。淵田さんの晩年の貴重な一日、私の牧する教会で、忘れがたい日米和解の福音を説いて下さったのです。

日米開戦80年に寄せて

「永続敗戦論、戦後日本の核心」(白井聡、太田出版)と言う肺腑を抉る論説や、未だに米軍基地があって何が独立国かと自嘲する向きがある事を承知しています。しかし戦後の歴史を振り返り、もし共産主義旧ソ連・現在のロシアに占領されていたら日本はどうなったか、歴史にイフはないと言うが、それは悲惨な事になっていたと思う。

 先に私はSALTY誌に拙論、「戦後民主主義の初めの愛」(12/1 掲載)を書いて、1951年‘サンフランシスコ講和条約’締結による、戦後の日本独立に際して全面講和を主張した南原繁東大総長の論を紹介しました。しかし、現代から振り返ると米国はじめ49カ国自由陣営との単独講和を主張した、吉田茂首相の判断に軍配を挙げざるを得ません。専制主義的・人権軽視で‘民主集中’の欺瞞的ロジックで、共産党一党支配国家の息苦しさを我々は知っています。他方、国民主権・基本的人権尊重・議会制民主主義の、自由主義陣営の恩恵は測り知れないものがあります。

 この同じ価値観を共有する日米関係は、今や歴史上稀に見る良好な関係にあります。勿論様々な矛盾が伏在することは重々承知していますが、総じてこれで良かった、と思います。その根本的理由は、米国が復讐でなく和解を基調とした政策を取ってくれたところにあります。その深い精神的基盤が、米国がキリスト教の和解の福音に立つ国家であることに起因すると思います。

 ここで余談ですが、10月某日のBSフジLIVEプライム・ニュースで、日本思想史・倫理学の日大教授先崎彰容氏が2カ月間米国で研究、そのホットなリポートを述べた。現在米国には3つの大きな分断がある、と言う。
①西岸のGAFAに象徴される先端企業のデジタル技術経済エリート層と、東岸の政治・官僚・学界・金融エリート層(デイープ・ステイト)、
②中西部のバイブル・ベルトと言われる、古き良きアメリカの宗教保守層(デイープ・アメリカ)、
③移民(難民?)が押し寄せ、彼らは自分がアメリカ人であることすら自覚していない、食うに精一杯の層、

 この3つに深刻な分断を経験している。その中で統合和解精神として復元力を発揮しているのが、②の層だと言う。つまり①の技術・経済・政治エリ-ト層の一部は競争に疲れ両岸を離れ、その精神的回復を中西部の宗教に求めている。丁度日本で東京の競争に疲れたIT技術者やビジネス・パーソンズが、田舎に移住してオーガニック農業に癒しを求めるに、似ていると言う。また③は米国社会崩壊の温床であり、そこに手を差し伸べて米国のスピリットに、温かく迎え入れ包摂しているのが③の層だと言う。私も以前米教会を訪ねた時、移民たちが米社会に適応できるよう教会が様々な援助、日本なら完全に行政マターを実施し、米国教会の愛の底力に感心したものです。以上の先崎教授のレポートを見ても、今も変わらない米国社会がいかにキリスト教の和解の上に立つ国家であるかがうかがい知れると思います。本題に戻ります。

 米国の和解の精神の証しとして、2016年5月27日オバマ大統領が広島を訪れ、さらに同年12月27日、安倍首相がハワイの真珠湾を訪れ、それぞれ犠牲者に花束をささげて弔意と敬意を表した事に象徴されたと思います。歴史を摂理の御手で憎しみから和解に、戦いから平和に導かれる神様に感謝するものです。また平和構築の為に尽力された方々に敬意を表する者です。ちなみに安倍首相の真珠湾でのスピーチは‘和解の力、The Power of Reconciliation’でした。

「新しい人」の方へ

 ノーベル賞作家、大江健三郎さんが「「新しい人」の方へ」(朝日新聞社)と言う若い世代への書を出された。その最後に新約聖書エペソ人の手紙2章14~17節を解説し、‘この手紙では、キリストは平和をあらわす。それは、対立してきた二つのものを、十字架にかけられたご自身の肉体をつうじて、ひとつの「新しい人」に作り上げられたからだ。そしてキリストは敵意を滅ぼし、和解を達成された・・私は、なにより難しい対立のなかにある二つの間に、本当の和解をもたらす人として、「新しい人」を思い描いているのです。それも、いま私らの生きている世界に和解を作り出す「新しい人(たち)」となることをめざして生き続けて行く人、さらに自分の子供やその次の世代にまで、「新しい人(たち)」のイメージを手渡し続けて、その実現の望みを失わない人のことを、私は思い描いています’、と説いている。

 敵対する者の和解以外にこの人類の将来はない。2千年前イエス・キリストは一人十字架に掛かり、敵対する者を赦された。ここに希望がある。これからは一人ではなく多数の人々がこの和解に生きる時代になったのではないかと大江は呼びかけている。かつての鬼畜米英と敵意に燃えて戦った日米が、80年後これまでにない平和な関係にある。デイセーザー軍曹、淵田美津雄大佐の証しにおいて、和解の福音の力の素晴らしさが現実のものとなっている。日米関係をモデルとして、願わくは現在険悪な関係にある日中、日韓、日朝間もかくある日の到来を願わざるを得ません。そのために日本始め、それぞれの国々のキリスト者の果たすべき役割は大きいと思います。

「平和をつくり出す人たちは、幸いである。彼らは神の子と呼ばれるであろう。」 (マタイ5:9)

「キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、‥彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、ふたつのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。」 (エペソ2:14~17)

 

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(注1) 『真珠湾からゴルゴダへ』淵田美津雄 著
・購入ご希望の方は、大阪クリスチャンセンター にご連絡ください。
(フロントページの下に購入方法が載っています。)
<定価> 150円(送料別)B6版16ページ

 

(注2)   日本フリーメソジスト教団 神楽町教会

・教会紹介:『神楽町教会の創世記』より、一部抜粋

なにごとも最初が肝心である。どのような人によって、どのようにして開始されたか。それ以後の歴史は、これによってほぼ決定されるのではないだろうか。振り返って、わたしたちの教会の初期の二三の人物に光を当ててみたい。

  1. 1.   教会が誕生するまで  デシェーザー宣教師のこと

 1942年4月18日、第二次世界大戦が始まって数ヶ月後、日本軍が各地で大いに戦果をあげていたとき、突然、米空軍ドーリトル部隊が日本の心臓部に侵入して、軍部の肝を冷やしたことがある。真珠湾の攻撃に報復する最初の日本本土の爆撃である。その部隊の一員が、デシェーザー軍曹であった。彼らの搭乗していた飛行機が、日本を縦断し、中国上空に達したとき、燃料切れになったので全員、落下傘で脱出した。しかし、落下したところが日本軍の統治下であったため、捕らえられ、捕虜になった。デシェーザー軍曹は、この時点では、クリスチャンではなく、日本人を憎んでやまない一アメリカ人にすぎなかった。しかし、同じ捕虜の中に敬虔なクリスチャンがいたことや、たまたま、差し入れられた聖書を読むことで、回心を経験することになったのである。イエス・キリストが自分を十字架につけて殺そうとしている者のために、「彼らを許してください」という祈りを神に捧げているのに強く感動したのである。この回心により、憎き日本人が愛すべき日本人になった。

 1945年、戦争が終わるや、軍曹は帰国し、聖書を学んで、1948年の暮れに宣教師として、来日。翌年、西宮市御茶家所町の福井氏(現大手前大学)の広大な邸宅の一部に住み、ここで、バイブル・クラスを始めた。敗戦直後の多くの日本人は、精神的支柱を失って虚脱状態にあり、生活も貧しかったこともあって、戦勝国で豊かなアメリカの宣教師が伝道しているところには、多くの人々が集まった。御茶家所町のバイブル・クラスとして始められた集会も例外でなかった。

 当初、デシェーザー宣教師の活動は、全国的に展開されていて、東京の街頭で伝道しているとき配布されたチラシによって、真珠湾攻撃の司令官であった淵田美津雄が回心し、クリスチャンになったということは、よく知られている。そういうこともあり、御茶家所町の集会は、主として、デシェーザー宣教師の夫人が責任を持っていた。しかし、二人が、2年ほどで、西宮を離れたため、集会は大阪丸山教会の「西宮伝道所」となり、同教会より、神学生が派遣されてくるようになった。しかも、集会の場所も他に求めなければならなくなり、 全国的な一時的で、異様ともいうべきキリスト教ブームが冷えてくるに従って、集会に集う人々が次第に少なくなった。

 ただ、教会がデシェーザー宣教師の働きに起源を持つということの意味は、小さくない。すなわち、イエス・キリストの「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」という至難の教えと実践が教会の基礎となったことを意味するからである。

<以下略>

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● 新刊書 『環境神学』亀井俊博 著(2021-12/1 発行)