キリスト者の多様性を失わせる「牧師・教会」としての主張 ー 臼井猛 ー

写真:「キリスト者から見る〈天皇の代替わり〉」教会と政治フォーラム発行

臼井猛
SALTY論説委員

 以下は、東京基督教大学理事長の朝岡勝牧師による、「2・11平和の集い」における、オンラインでのお話です。(39:30辺りから)
https://youtu.be/zSwmPdpHvX0?t=2055

 クリスチャン新聞にも記事になりました。

祖父の神社参拝と検挙が当事者性の核にある「2・11平和の集い」で朝岡氏

 様々なお働きに敬意を持っています。それと、ここでお語りになっていることは是々非々で、私の考えを述べさせていただきます。

 やはり仰っていることの起点が、日本がかの戦争で戦っている、しかも後期、終戦直前のことを、今の時代にもそのまま残っているという視点で語られています。もちろん、あの時の状況は大変だったので、それを反省して、歴史的に検証していくという試みは、絶えず必要だと思います。

 しかし、日本の社会で、今、起こっているあらゆることを、あたかも、当時の天皇主義の復古であるかのように色づけてしまうことはいかがなものなのでしょうか?例えば、朝岡先生は、佐渡金山の歴史戦というものも、天皇主義の復古として取り上げています。これは、ソルティーの主筆である西岡力教授も、最前線で取り組んでいるわけですが、歴史における学説を検証し、また、韓国の民族主義における対日の外交戦という側面も強い動きです。それを、どうして一括りにして話してしまうのであろうか?と思います。

 歴史の真実を、すべて「天皇制とそれに抗う良心」という構図の中で語ってしまってよいのか?と思います。ご自身の祖父を通しての体験、いくつかの書物を通しての理解、朝鮮での殉教者の証しを読み、そこから感銘を受けるということは、とても良いことだと思いますが、それはご自身の考えであり、他にもいろいろな信仰者の証し、考えがあるのだという余地を大きく残さないといけないと思います。

 さもないと、その中で数多くの人々の言論や思想、また学問の自由など、現憲法で保障されている人権さえもないがしろにしていく、乱暴さを含んでいるのではないか?と危惧します。

 そして、教会という神の共同体に混乱をもたらします。すでに、「キボコク」という集会では、私の知人の若者が、そこで語られる聖書の釈義で、非常に混乱し、不安になって、おかしい、おかしいと言っていた人がいました。当時の、ある政党における政治的主張を、聖書釈義の中に取り込んで話していくことの危険を経験しています。とあるキリスト者のフェイスブック・グループで、当時、その問題点が議論され、多くの人々が懸念の思いを投稿しておられました。

 しかし朝岡先生は、以上のような異見、問いかけを、この動画で「まだ悔い改めていない体質が残っているという」感想を述べておられます。その問いかけを、ご自身の中で逡巡しておられたようですが、結局、個人としてではなく、牧師として、教会として語っていく立場を再確認しています。そして今は、東京基督教大学の理事長としての立場も前面に出してのご発言です。

 しかし私は、こここそが、問題だと言い続けます。パウロは、自分は肉を食べるのは全く問題ないけれども、兄弟をつまずかせないために、肉は一切食べないと、言ったことです。私たちの信仰の自由は、兄弟への愛に裏付けされています。

 西岡力先生のソルティー発足における、日本の教会への問いかけの文章をリンクさせていただきます。

「日本キリスト者オピニオンサイトSALTY」創刊にあたって-西岡力-

 それから、論説委員の田口望氏は、天皇の代替わりについての、日本の福音派を代表する団体JEAで発行された冊子について、連載で批評を加えています。貴重な資料です。

「その時に備えて」に備えて