カルト脱会者からこそ学べ(3)~「ひかりの輪」上祐史浩代表 ~ ー中川晴久ー

 

 

 

中川晴久
東京キリスト教神学研究所幹事
日本基督神学院院長
SALTY-論説委員

 

 私が最初に上祐さんと会ったのは、もう5ー6年ほど前になります。前回紹介した宗形真紀子さんの著書を読んで「ひかりの輪」を覗いてみたくなったからで、横浜の学習教室での学びの場に参加してみたのが最初です。
 横浜の学習教室は2DKで部屋も狭く20人も入ればもう満員で座る場所がない感じのとこでした。講話の前に少し基礎的なヨガの指導を受けたのですが、隣の人とぶつからないように何とか体を動かしました。その後で上祐さんの講話があり、質疑応答という流れでした。私はせっかく来たのだから、何か上祐さんの生き方の本質的なもの、その核心をつかみたいと思い、質疑応答で何を聴いたらいいのだろうとさんざん考えた挙句、結果単純にも「上祐さんにとって仏教とは何か?」という質問を投げました。

< 「仏教とは何か?」の回答 >
 その答えは「仏教とは覚り(さとり)」だというものでした。
 遠い話であまり覚えていないのだけど、自分たちは仏教というより仏教哲学の集まりだという話の後で、仏教の「悟り」は「覚り(さとり)」とも書くのだという内容の回答がありました。
 ある世界の中からちらっと顔を出して外から見えた時にその世界の中では見えなかったものが見えて、気づく。その「気づき」が「覚り」でもある。だから「覚り」の連続なのだという話もあったような記憶があります。
 私は仏教とは「仏に成ること」と聞いていたので、人間であることを止めて「成仏すること」というような返事があるのかと仏教についての浅い知識で考えていたので、その違う答えが非常に印象深くのこりました。
 ならば当然のこと、どんな「覚り」いかなる「気づき」があったのかを知りたくもあるわけです。「ひかりの輪」の発足からもう15年も経っています。世間の記憶は30年前のあの時のオウム事件のままで止まっている人たちも多くいます。しかし、事件から約30年。「ひかりの輪」として歩んで15年です。人が変わらないはずがない。
 私の教会も教会開拓から15年以上が過ぎました。その間、ずいぶん痛い目に合いながら繰り返し反省し続けた感があります。生きていくにあっては、どうあれ身体が過去との連続性を担保します。時が経っても別人だとは言い切れないし、まったくの別人にもなれません。しかし、同じ身体における自己同一性の縛りにあっても、やはり15年前の自分と今の自分はまるで違います。その間に、いろんなことがあり私なりの経験があったからです。
 「気づき」を仏教の核とするならばなおのこと、これまでの歩みにおいて何を見て、何に気づき、どう生きようとしているのかを知りたくなります。
 横浜の学習教室にて質疑応答の後は、相談者が順番待ちをしていました。参加者の相談を受けているのです。上祐さんが一人ひとりの相談に耳を傾け対応している様子が見えました。私の順番は最後で1時間半ほど待つことになり、その間に副代表の水野さんからあれこれと「ひかりの輪」について聞くことができました。想像とはまるで違いました。結局その日は水野さんとの話に満足して、上祐さんとの個人面談をキャンセルして帰ってしまったのですが、やはり実際に会って話してみないと分からないことばかりです。
< 「人生相談ばかりしている。」 >

 昨年、ロフトプラスワンにて上祐さんと対談することになり、その間を取り持ってくださった人との会話の中で何気なく質問しました。
「上祐さんって、普段は何をしているの?」
そして、その答えが
「人の人生相談ばかりしている。」
というものでした。私はすぐにあの最初の出会いの場を思い起こしました。

 「人の人生相談ばかりしている。」というのは真実なのでしょう。相談を受けている上祐さんの姿を見て、あの時、私は「よくやっているなあ。」と思いました。世間からはいろいろな形で非難をうけることも多い中で、少し覆いを開けて中を覗いてみたとき、そこに見えたものです。

 < なぜ彼らは上祐さんを選ぶのか? >

 では、なぜ上祐さんに人生相談をする人たちが多くいるのだろうか。相談相手ならばキリスト教会の牧師であってもいいわけです。そこに並んでいた人たちの私の印象は、全員がそうであるわけがないのだけれども、多くが何かしらで深刻な心の問題を抱えている様子でした。

それにしても、なぜ上祐さんに相談するのだろうか。
そのような疑問が浮かぶと同時に、すぐにその理由も分かるような気がしたのでした。

<その理由に至る私の寿町経験>

 私は21歳にしてキリスト信仰に入り、大学も辞めて寿町伝道にのめり込みました。寿(ことぶき)町とは横浜市中区にある労務者のための小さな町で、頼るべき身よりのない人たちが集まり路上生活などする人たちもいました。同じような労務者の町として東京の山谷、大阪の釜ヶ崎といったところが有名です。

当時は今のように簡易ホテルも綺麗なものではなく、ヤクザの事務所が5つあり、殺人も年間で5ー6件はありました。アル中の人、薬中の人もふらふら歩いていて、賭博場もあり、薬の密売人ともすぐに知り合いになれる治外法権的な場所でした。寿町の目の前のファミレスで夜勤のアルバイトで入ってみると、さらに深く彼らと関係を持つことができるようになりました。
さて、日本社会を裏側から見てみると、私たちがいう「社会」というのは一面のものでしかないことに気づきます。そこで成功するにしても、何とか上手くやっていくにしても、かなりのエネルギーを必要とするのです。そのような社会から一歩外れて寿町に入ると、どことなく不思議な平安があるのです。ある時ハット気づきいたのですが、寿町には「裁き」がないのです。
「裁き」とは、キリスト教用語ですが、往々にして罪に対する結果としてもたらされるものという理解があります。寿町の人たちの会話ではよく「だからお前はダメなんだよ!」「バカか、お前は!」「お前はドウシヨウモナイな!」というようなことを言い合ったりします。しかし、そこには「裁き」がないのです。いえ、「裁きにならない」と言った方がいいかもしれません。
「ダメだな、お前」と言っている本人が、自分が一番「ダメ」だと思っているのです。「社会」から外れ、その底辺に位置してしまっていることをよく知っているのです。だから、互いに「お前はダメ」といい合っていても、裁きの言葉が裁きになっていないのです。そんな会話を聞きつつも、私もまた彼らと一緒にいることに不思議な気楽さを覚えていました。

 

「裁き」がない。>

  そのような寿町の気楽さから自分の所属する教会に戻ってみると、残念なことに「裁き」があるのです。教会に「裁き」があると言って片づけてしまうのも違うのですが、ただ一つ。
 「生きる」ことにあって綺麗ごとでは済まされないものを抱えつつ、それでも生きねばならない者たちにとって、「あれは罪」「これは罪」という立派な教会、熱心な教会、敬虔な教会は疲れてしまうのです。

「お前はなぜ死なない?」「狂えよ!」そんな罵声の中で、上祐さんは言い返すことをしません。言い返す権利を自ら放棄したのか、その権利を「社会」が奪ってしまったからなのか。そのような中で生きてきた彼が語る言葉は、どうあれ「裁き」とはならないでしょう。

 私たちはいろんな顔を隠してこの社会で生活しています。つらいことも「つらくない。」、苦しいことも「苦しくない。」と自分に言い聞かせて、何とかこの社会に生きようとしています。自分にそう言い聞かせねば潰れてしまうからです。しかし、その負担が自分では負いきれず、もう潰れざるを得ない人たちもいいます。中には社会では決して許されない不具合を抱えつつも生きねばならない人たちもいます。彼らはどこへ行けばいいのでしょうか。

 そのような人たちにとって、立派な人たちの立派な言葉は〈なぜオレたちのようにできない?〉という無形の圧力であり、それは意図せず「お前はなぜ死なない?」「狂えよ!」と聞こえているのかもしれない。そのような人たちにとって、上祐さんは自分の抱えている問題を打ち明けることのできる存在なのではないか。彼自身が「そこを通ってきたのだから。「そこ」とは、通った者でしか分からぬ痛みや苦しみの経験というべきか、人生のどん底とでもいうべきか、もっと底のない深淵のようなものだろうか。

 ならばキリスト者はどうあるのがいいのだろうか? 私はキリスト教会の役割を考えさせられました。

 先日、われわれのSALTY-JAPANのよき理解者である後藤牧人牧師の著書『日本宣教論』を上祐さんに手渡しました。「そこ」に生きる上祐さんにとって、「キリスト教」のあれこれは受け入れられなくても、イエス・キリストご自身は理解できるのではないかと私は考えています。キリスト・イエスもまた「そこ」を通り十字架にあって死なれた方なのだから。何より私の主(しゅ)であれば、私の祈りの内にある彼をよく知っておられると信じています。

カルト脱会者からこそ学べ(2)
https://salty-japan.net/2022/09/17/8082_2/

カルト脱会者からこそ学べ(1)
https://salty-japan.net/2022/09/02/8082/