人権・核廃棄なしの板門店宣言 −西岡力−

 

西岡力
「日本キリスト者オピニオンサイト -SALTY-  主筆
モラロジー研究所教授、麗澤大学教授

人権・核廃棄なしの板門店宣言

 悲しさをにじませた脱北者たち

 「多くのテレビ局から、板門店会談で出された北朝鮮料理の解説をしてほしいという依頼がきたが全部断った。文在寅大統領と金正恩(委員長)が何を食べようと知ったことではない。国連機関によると北朝鮮住民の7割が栄養失調でその半分は餓死直前だという。それなのに北朝鮮住民に自由と人権を与える論議がなかったことは許しがたい」

 文大統領と北朝鮮の独裁者・金委員長の会談翌日の4月28日、韓国の国会議員会館で開催された「第15回北朝鮮自由週間」開会式で、博士号を持つ北朝鮮料理専門家の女性脱北者が語った言葉だ。

 同行事は2004年、米国議会が北朝鮮人権法を通すとき、米国、韓国、日本などの人権運動家がワシントンDCに集まって始めたものだ。私はほとんど毎年参加しており、今回も共同代表の一人として開会式でスピーチをした。

 文大統領は板門店宣言で「5月1日から軍事境界線一帯で拡声器(宣伝)放送やビラ散布をはじめとするあらゆる敵対行為を中止し、その手段を撤廃(する)」と約束した。それに対して自分たちでカンパを集め、故郷の人々に真実を伝えようと風船でビラを飛ばしてきた脱北者たちは「北朝鮮住民にも知る権利があるから、ビラ飛ばしはやめない」と明言した。

 韓国人拉致家族は私に、「大統領官邸前でのリレー1人デモ、その場での記者会見、請願などできうることをすべて行って韓国人拉致問題を議題にするように求めたが無駄だった。悲しくてやりきれない」と心情を吐露した。

 文大統領は7時間半も金委員長と過ごしたが、彼がいやがる人権問題を議題としなかった。だから、2人は笑みを満面に浮かべ「南北和解」を演出できた。

 「平和」だけが強調された

 正式名称が「朝鮮半島の平和と繁栄、統一のための板門店宣言」である宣言では本文に「平和」という語が12回も出てくる。冒頭部分には「朝鮮半島にもはや戦争はなく、新たな平和の時代が開かれたことを8千万のわが同胞と全世界に厳粛に宣言した」とある。しかし朝鮮半島の軍事的緊張は、北朝鮮というテロ国家が核、ミサイル、生物化学兵器を開発し、韓国に軍事挑発を続け、世界中から多くの無辜(むこ)の民を拉致して帰さないことから生まれている。だから、金委員長から「核ミサイル完全廃棄と全拉致被害者帰還」という約束を取り付けることが平和実現のための唯一の道だった。しかし、文大統領はそれに失敗した。

 それなのに平和を強調するのは、米朝首脳会談が決裂した場合に軍事的緊張が高まることを予想した金委員長が、韓国政府と韓国国民に戦争反対を叫ばせて米軍の活動を抑えようとした策略かもしれない。

 本文2213字(原文)の宣言の中で核問題に言及したのはわずか148字(約7%)だけだ。そこには日本のマスコミが、金委員長が完全な非核化を約束したと大見出しで報じた「南と北は、完全な非核化を通して核のない朝鮮半島を実現するという共通の目標を確認した」という記述が入っていた。しかし、ここで言われている「朝鮮半島の非核化」とは、すでに3月に訪中した金委員長が金日成主席の遺訓だと語ったものと同じだ。1991年に金主席が提唱した米軍撤退、韓米同盟解体をその中身とする「朝鮮半島の非核地帯化」に外ならない。だから、北朝鮮メディアも宣言を全文報じることができた。

 北の立場は従来と変わりない

 日本では注目されていないが、宣言では「非核化」記述の直後に「南と北は、北側が講じている主動的な措置が朝鮮半島非核化のために非常に意義があり重大な措置だという認識を共にし」という文が入っている。「北側が講じている主動的な措置」とは4月20日の労働党中央委員会総会で核とミサイルの実験中止、核実験場廃棄を決めたことを指す。ところが、同決定では実験中止の理由を「国家核武力がすでに完成した」からだとしている。核保有宣言なのだ。

 金委員長は4月22日に北朝鮮の言論機関と文学創作機関に「北朝鮮が堂々たる核保有国になったことを住民らに宣伝せよ」という指令を下している(韓国の通信社NEWSISのスクープ報道)。つまり、宣言に書かれた「朝鮮半島の非核化」とは、核保有国である米国と北朝鮮が対等な立場で核軍縮を行うということなのだ。これは従来の北朝鮮の主張で、何の変化もない。

 ソウルで北朝鮮自由週間開会式が持たれていた頃、ボルトン米国大統領補佐官が米国のテレビに出演して、「リビア型」の完全で検証可能、不可逆的な核ミサイル廃棄を改めて求めた。ボルトン補佐官を従えたトランプ大統領は簡単に譲歩しない。文大統領ができなかった「核ミサイル完全廃棄と全拉致被害者帰還」という約束を金委員長から取り付けられるのか。それができなければ、私たちは軍事緊張の高揚という重大な危機に直面する。

(モラロジー研究所教授、麗澤大学教授・西岡力 にしおかつとむ)

■ 出典:産経新聞ニュース『正論』(2018.5.2)より