習近平体制における中国の教会の変容 – 臼井猛 –

臼井猛
SALTY論説委員

大雑把な監視体制

 私は、中国で、ある働きをして数年いました。文化や習慣、制度が日本とはまるで違うので、初めの2年ぐらいは面食らいましたが、主が中国を愛する心を与えてくださいました。本当に中国が好きになり、今も愛しています。

 長く住んで、いろいろな発見がありました。中国共産党による独裁支配であることには変わりないのですが、文化大革命を経て、鄧小平による改革開放のおかげで、市場経済が導入されており、経済的な繁栄の中でのある程度の自由は担保されています。

 監視社会であることは間違いなく、特にインターネットは様々な規制が課せられています。けれども日本との大きな違いは、良くも悪くも大国だということです。これだけ広大な土地を有し、巨大な人口を抱えていますから、細かいことを言っていては統治できません。良い意味で「いい加減さ」があり、人々は自分たちで考え、自分の生活を維持しています。公の示威行動をしたり、集会を開いたりすることがなければ、個人的に政権批判や悪口を言ったところで、大きな問題にはなりません。文革時代の政府については、公に批判することができます。

 教会は、家の教会であれば、自分たちのホームページはありません。表立っては、教会堂のようなものも、十字架も掲げていません。けれども、中に入れば、日本の教会と何ら遜色なく、いやむしろ、もっと多くの人たちが集い、活気があり、自由な空気が流れています。説教壇から政府批判をすることはありません。けれども、よく考えれば私たちだって政権の批判を説教壇から語ることはなく、指導者のために執り成しても、批判をしなさいとは聖書には書いていないのですから、共産党政権の国が必ずしも、教会と相いれないとは限りません。

 中国では、基本、面子を潰すようなことがなければ、黙認される空気があります。つまり、目立つようなことをしなければ、自由に教会活動をすることができます。これもまた、霊的には良い面に働き、教会が物質的に繁栄するのを結果的に防ぎ、本質的な面をいつも顧みる機会がたくさんあります。こうやって、中国の教会は、物理的な制限があるがゆえに、健全に成長する余地がたくさんあります。

 中国には、人口の一割がキリスト者ではないのか?とも言われています。しかも、ここ十数年の動きは、若者の間で信仰が広がり、新興の教会には20代、30代の若者で満ちています。アメリカのキリスト者の数を超えるのではないか?とも言われていました。実に、共産党員よりもキリスト者の数が多くいて、共産党員の中にも信仰を隠れて持っている人たちが多くいるとも言われています。現在の習近平体制はその脅威に対処しようとしています。

一党独裁の性質の変容

 ところが、それはすべて、神がおられるからという前提です。共産主義という反キリスト教の思想を掲げる政権であっても、神は、バビロン帝国の王ネブカドネツァルを神の器として用いられたように、用いられたと思います。ところが、習近平体制が自分自身を高め、自分が神であるかのようにふるまっている今、神がいつ裁かれるのか、懲らしめられるのか知れないのではないか?と案じています。

彼は力強く叫んで、こう言った。『その木を切り倒し、枝を切り払え。その葉を振り落とし、実を投げ散らせ。獣をその下から、鳥をその枝から追い払え。」(ダニエル書4:14)

 これは、預言者ダニエルが解き明かしたネブカドネツァルの夢です。葉が生い茂って、実が豊かに結ばれ、天にまで届くような勢いの木ですが、聖なる者が来て、根株だけを残して切り倒します。それは、神こそが人間の国を支配していることを示すためです。

 今の中国共産党政府の姿を見ると、ネブカドネツァルの見たこの夢を思い出します。中国は56の民族を抱える多民族国家であり、それを一つにまとめるのは容易なことではないですが、上手にこなし、豊かな繁栄を築いてきました。その覇権は世界に及び、野の獣が高くそびえる木の恩恵を受けているように、世界が中国の製品や技術に依存して生きるようになっています。けれども、自分の力でこのことを成し遂げたのだという奢りがここ数年、顕著になっており、国にとって命取りとなります。

 私が日本に拠点を移して、しばらくしてから習近平氏が主席となりました。習近平体制になってから、独裁化が急速に進行したように思われます。以前は、曲がりなりにも、「複数による独裁政治」でありました。毛沢東主席が独裁者となったゆえに、様々な惨事をもたらしたので、その反省から、複数の人間による統治を行いました。それゆえ、国家主席の任期も2期までと規定していました。ところが、2017年の全国人民代表大会で、任期制限を撤廃する憲法改正を行いました。習近平氏の終身が可能になったということです。

 当時の様子を論じる記事が、習近平体制による中国の変容を上手に表現しています。「中国モデル1.0」から「2.0」になった変化に注目してください。

視点:「中国モデル2.0」の衝撃、日本企業も進退判断を=呉軍華氏

「この大会で、習氏が「東西南北中、党が全てを指導する」という言葉を使い、大変驚いた。文化大革命の時によく使われていた表現で、共産党が政治経済と社会の全てを統制する、という意味だ。党があらゆる面で統制を強めるという宣言にほかならない。それを裏付けるかのように、2017年初あたりから中国の代表的な資産家が行方不明になったり拘束されたりしている。知識人への締め付けはもっと前に始まっており、かつて「モデル1.0」を支えたエリート同盟は実質的に解体されている。」

 胡錦濤(こきんとう)体制においては、「和諧(わかい)社会」(ウィキペディア)をスローガンに掲げ、宗教の社会における役割を公に認めるほどになっていました。教会の雰囲気は、ますます栄え、全世界に向けて宣教師をたくさん送り出そうという勢いさえありました。「ミッション・チャイナ2030」という大会が行われ、2030年までに2万人の宣教師を中国から送り出すというビジョンを掲げています。

2013年の教会の様子を、NHKのBS放送が報じています。

宗教の中国化 

 ところが、習近平体制になってから、上の「中国モデル2.0」にあるように、共産党が政治だけでなく、経済や社会の統制を強め、その中に宗教も含めるようになったのです。それが、「宗教の中国化」です。以下は、その実態を端的に説明している記事です。

習近平政権が進める「宗教の中国化」とは

 習主席は2016年の「宗教工作会議」で、「宗教の社会主義社会への適応を積極的に導くために、中国の宗教の永続性を『中国化』という方向において支援することが重要な課題である」と述べました。2017年に「宗教事務条例」の改正が施行されました。信仰の内容までを中国共産党の意向に沿うものにするということで、単なる組織的な統制ではなく、信仰の良心を侵す、一線を越えたものになっています。今年(2020年2月)には、「宗教団体管理規則」を施行しました。(参照記事)これが、彼らの宗教の中国化推進の構想の総仕上げとなっています。

 しかしその時に、武漢からの新型コロナウイルスの流行で、中国各地の教会は、別の理由で対面礼拝を当局が禁じるようになりました。私の友人の教会スタッフは、「コロナは恐れていない。それよりも、コロナが終息後、礼拝が継続できるかが心配だ。」と述べていました。

 中国共産党政府は、外国からの宗教の持ち込みを元来、警戒していましたが、この動きが始まってからは、一挙に加速化し、国内の宣教師は大量に追放されました。何とか留まっている方々も僅かにいますが、祈りが必要です。私が働いていた教育機関は、すべての外国人職員が追い出され、実質的に閉鎖させられたと聞いています。

米中戦争は「貿易」以上のもの

 こうした内容に関する情報は、いち早く米政府に入っています。米中の貿易戦争は、単なる貿易上のことではなく、根幹の部分において中国に対峙するもので、ペンス副大統領による、宗教の自由の推進のための所見は、中国のキリスト教会の状況の中身にまで触れています。

【米国・ホワイトハウス】宗教の自由を推進するための閣僚におけるペンス副大統領の所見 2018/07/26

【米国:ホワイトハウス】第2回宗教の自由に関する閣僚会議におけるペンス副大統領の発言 2019/07/18

 ペンス氏は福音的信仰を持った熱心なキリスト者でもあり、国務長官で同じく熱心なクリスチャンであるポンペオ氏と共に推進し、そのため、トランプ政権が、宗教の自由においても戦う姿勢を取るようになりました。

荒らす忌むべき者のようにならないように

 「気を付けて、慎重にやっていれば、自由にできる」という雰囲気が、かなり薄められ、私の友人の中国人クリスチャンたちが個人的に、「文化大革命2.0だ」と言ってくれたのですが、それが現実のものとなっているようです。かつて、ダニエル書8章にあるように、ギリシアの王アンティオコス・エピファネスが、エルサレムの神殿を荒らし、祭壇に豚を、また敷地にゼウス像を立たせたように、「聖所の基はくつがえされた」(8:11)というようなことをやっています。終末に現れる反キリストのような動きを始めているのです。

 ぜひ、中国の兄弟姉妹のことを執り成して祈り、また習近平氏を始め、指導層の人たちが裁かれることのないよう、彼らがへりくだることができるよう祈ろうではありませんか。そして、日本がこのような狡猾な動きに対して惑わされることのないように、社会がそして国が目を光らせていることができるように祈りたいです。