赤っ恥「9条教」の牧師が引用する聖句はむしろ改憲を支持している −栗生稔−

SALTY論説委員
栗生 稔

 憲法記念日に合わせて、「憲法9条の護憲という政治的主張を声高にするキリストの一部の牧師」は聖書を用いて、「日本国憲法9条こそ神の御心」とばかりに喧伝しています。本稿では彼らのことを「9条教の牧師」と省略、表記することをご容赦ください。これは自らの政治的見解を主張したいがために、聖書を曲解して用いることのない、良識ある大多数の「キリスト教の牧師」に敬意を表するためであり、一部の「9条教の牧師」が大多数の「キリスト教の牧師」の仕事の尊厳を傷つけていることに気づいていただくためでもあります。

 護憲・改憲の政治的スタンス以前の問題として、牧師は聖書を読み解き、現代人に神のことばを紹介するのが本来任務です。それをさしおいて、政治的主張のために聖書をもちいることは、牽強付会(ケンキョウフカイ=自分の都合のよいように無理に理屈をこじつけること)とのそしりを受けてもしかたのないものです。また、政治的スタンスだけでなく、「9条教の牧師」には聖書を読み解く能力そのものにも首をかしげたくなるものがあります。「9条教の牧師」が引用する聖書の章節は仲間内の「9条教の牧師」からの借用、孫引き、受け売りが非常に多いのです。あげく、彼らが引用している聖書の章節を正しく解説するなら、護憲どころか改憲を支持していると読むべき箇所すらある始末なのです。

 ソルティ読者諸兄におかれましては、「聖書は護憲を支持している」などという、「9条教の牧師」の誤導に惑わされませんようにという注意喚起をするとともに、今回は彼らが多用する聖書の章節をご紹介し、「キリスト教の牧師」の一人としてより穏当な解釈、適応を例示したいと思います。

申命記1716節「馬を増やしてはならない」

「ギデオンの戦い」ニコラ・プッサン作
「ギデオンの戦い」ニコラ・プッサン作

 旧約聖書申命記17章は神政政治をしていた古代イスラエルに対して、周辺諸国と同じような王制国家を建設する場合どのようにすべきかを定めています。その場合、王の権能すら神から賦与されたもので無制限に認められるものではないという、国民ではなくて王に対して釘をさすような構成になっています。これこそ立法によって為政者の権能を制限するという、近代国家の立憲政治に通じるもの、また、王権神授説から大憲章(マグナカルタ)をへて天賦人権説・社会契約説にも通じる、近代市民社会の源流がここに申命記17章に垣間見れるという聖書の章節なのです。

 そのこと自体は私も否定しません。しかし、「9条教の牧師」はこの申命記17章をことさら強調し、特に17章16節で「馬(軍馬)を増やしてはならない」と書かれているのと軍縮や日本国憲法の平和主義に重ねてしまっています。そして、聖書は憲法9条の平和主義を支持しているかのようにいうのです。ここに論理の飛躍があるのです。

申命記の戦争規定は別章にある

 キリスト教の神学校で聖書の解釈学を学んだ「キリスト教の牧師」は、一番してはいけないことは、聖書の一部だけを抜粋し、つまみ食いして、捻じ曲げることを厳に慎むように教えられます。文脈(コンテキスト)を大事にしなければなりません。もし、申命記から戦争についての考え方を知ろうとするなら、申命記20章を読むべきで、申命記20章は交戦規程、戦争法規が書かれており、士気が下がるといけないので、徴兵制ではなくて、志願兵制をとることや、攻囲戦をするときに加重な兵糧攻めを禁止する規定などが書いています。また、遠方の町攻めをする際に最初に必ず降伏勧告をするようにという規定があったりして、申命記は全体として自衛戦争はおろか侵略戦争すら認めているのです。侵略戦争すら容認している申命記を用いて、聖書は戦争法規を謳った憲法9条を支持しているというのは甚だ無理があると言わざるを得ません。

「軍縮」ではなく「財政規律」の規定

「シバの女王のソロモン王の訪問」エドワード・ポインター作
「シバの女王のソロモン王の訪問」エドワード・ポインター作

 もっというと、「馬を増やすな」17章16節そのもの解釈もずれてしまっています。「馬を増やすな」という規定が戦争法規についてかかれた申命記20章ではなく、王の権利を制限する17章に書かれている点、申命記20章では「剣」で敵を倒すことが勧められていて武器の保持自体は認められている点、さらには後代にこの申命記17章の規定を破ったソロモン王について言及している旧約聖書列王記の記述から読めば、なぜ「剣を増やすな」ではなくて「馬を増やすな」と17章で書かれているのかその意味を9条教の牧師は読み取れていないのだろうと推察されます。

 「9条教の牧師」は聖書以上に「絶対的非戦論」や「非武装中立」のような聖書にない概念を聖書以上に聖書としているので、軍事に関しての知識があまりにないのかもしれませんが、馬というのは攻撃型兵器、外征兵器で、その維持費が非常に高くつきます、鯨飲馬食なんていう言葉がありますが、平時から馬を維持しておくことは、大飯ぐらいの飼料を用意し、厩舎を用意し、馬を管理する飼育員を用意し、その上逆に自分たちが攻め込まれて籠城戦を強いられた場合、馬がいる方が兵糧攻めにあった時に耐えにくくなります。(馬肉は食べられますが、最初から、馬の餌になる分を人の糧食として備蓄していた方が良いですし、そもそもユダヤ教では食物規定で馬肉は禁じられています)。

 この、申命記17章16節の「馬を増やすな」という戒律は後代にソロモン王が破るのですが、破ったことで周辺諸国に軍拡競争を惹起し、それがために国が滅びたとは聖書は語っていません。この17章のそのほかの様々な規制を破ったがために「大きな政府」になってしまい、それがために、国民は労役や重税で苦しみ民衆の不満が高まり、ソロモン王の次代レハブアム王の時に北部部族による分離独立運動がおこり、王国が分裂したことが列王記に書かれています。馬の問題は軍拡競争をストップさせる等という意味合いはなく、財政問題として語られていると読むのが文脈を大事にする福音主義のキリスト教の牧師の穏当な解釈と言えます。

申命記17章16節を敢えて現代に適応するならば

 馬は第一次世界大戦までは陸上最強の兵器の一つでした。戦車(タンク)の登場でその主役の座を奪われ、その後、戦艦、空母、戦略爆撃機などがそれぞれの時代の最強の攻撃型の兵器となります。これらの兵器は自国の領土内で守るというより、相手の陣地にまで移動してその力を発揮する兵器で総じて、イニシャルコストもランニングコストも高いのです。もし、日本が空母を保有しようとすればそのランニングコストは年2.5兆円とも言われていて、年5.5兆円の防衛費が空母の維持費だけで1.5倍になってしまってしまいます。

 ちなみに、現在の内閣法制局の見解では、自衛の為ではなく、相手の領土を壊滅的な破壊を主目的とする攻撃型兵器である、攻撃型空母や戦略爆撃機は憲法上保持は認められていません。

 これらの事から言えることは申命記の17章16節が支持する所は、護憲どころか、むしろ日本国憲法9条1項2項を残したうえで、「武器の制限された軍隊」で「GDP比1%代の防衛費で最低限度の実力」である自衛隊を憲法に明記し現状を追認しようという安倍前首相が提唱している改憲案を支持することが神様の御心となってしまうのです。真逆の聖句を使いその過ちに気づけないからこそ、わたしは「9条教の牧師」を一般の「キリスト教の牧師」と区別しているのです。

 最も、私は聖書を用いて自らの政治的見解を主張することは、それこそ、ローマ帝国時代に偶像礼拝を忌避するキリスト教徒に皇帝礼拝を強要するような重大明白な聖書の教えに反する場合を除いて反対です。ただ、少なくとも申命記17章16節を用いて「護憲が神の意思」等とを騙られることは遺憾ですし、聖書が指し示すことと真逆のことを語ってその教えを広めるなんて言うことは、神を信じ、神を恐れる「キリスト教の牧師」はまかり間違ってもそのようなことはしないと信じます。