神さまを「あなた」と呼ぶ日本の教会は不敬なのかー日韓比較文化の視点で考える −西岡力−

 

 

西岡 力

ソルティ主筆
前 東京基督教大学神学部
国際キリスト教学科教授

神さまを「あなた」と呼ぶ日本の教会は不敬なのかー日韓比較文化の視点で考える

 韓国人宣教師の多くが日本にきて日本のキリスト教会で祈りや賛美の中で神様のことを「あなた」と呼ぶ場面に驚いたとよく聞きました。

 ある宣教師は、日本で宣教が進まない理由は、神さまを「あなた」と呼ぶことに表れている日本の教会の神へのへりくだりの不足だとさえ論じていました。しかし、これは日韓の敬語の違い、その背後にある社会システムの歴史の違いを無視した乱暴な議論です。

 日韓比較文化論の視点からそのことを論じてみましょう。

 韓国語では父親を含む目上の人には、「あなた」にあたるタンシン(當身)という言葉は使えません。大まかに言って、韓国語は絶対敬語でいつでもどこでも誰に対して話す時も目上には尊敬語を使います。

 一方日本語は相対敬語です。まず内と外を区分して内の中では目上に敬語を使いますが、外に対しては目上、目下関係なく敬語を使います。その結果、日本語の敬語は対象を尊敬するという意味と、対象を外の人として距離をとり警戒するという二重の意味を持ちます。お祈りや賛美の中で日本語では神様にあなたと呼びかけることが不自然ではないのは神様がすぐ近くにいて警戒しなくてよいという感覚の表れです。

 日本語では父親に対して息子や娘が手紙などで、「お父さん、あなたはいつも私のことを大切にして下さって感謝します」などと書くことは不自然ではありません。父親のことをすぐ近くで自分を守ってくれる存在として意識している反映です。それと同じような感覚で、父なる神さまのことを祈りや賛美の中で「あなた」と呼んでいるのです。

 この感覚は絶対敬語の世界に生きている韓国人にとってかなり理解が困難な異文化です。

 私は東京基督教大学で韓国文化論を教えていたとき、いつもこのことを論じてきました。韓国人留学生と何回も話してきたテーマです。

 実は、日本も平安時代までは絶対敬語でした。竹取物語では天皇は自分に敬語を使います。これは実際そのように話していたのではなく作者が天皇のことを書く時天皇がご自分のことを話す状況で尊敬語になってしまったという説が有力です。朝廷が全国を統治する中央集権システムの言語への反映と思います。

 その後日本では武士政権が成立し地方分国システムになります。領主は領内では最高権力者ですが領国を出ればその地の領主の権力の下になります。そこから内と外を区分する相対敬語が生まれたのです。

 室町時代の狂言に領主が川向こうの百姓に向かってぞんざいな言葉で呼びかけたが無視され、家来の太郎冠者に川向こうはわが領国ではないと注意され、丁寧な言葉で呼びかけ直すという場面があります。言語学の本でそれがその頃に日本語に相対的し敬語が表れたことを示す証拠だと書いてありました。

 一方韓国は地方分国システムをとりませんでした。それで絶対敬語が現在まで残っているのです。高麗時代、武人である崔氏が日本の鎌倉幕府のような政権を立てました。しかし、すぐモンゴルの侵略を受けて崔氏政権は倒れてしまいました。モンゴルの侵略がなければ、韓国でも地方分国システムが採用され、相対敬語が発達していたかも知れません。