キリスト教界の反日的な傾向(3)~その原因を探る~ −中川晴久−

 

 

 中川晴久
東京キリスト教神学研究所幹事
主の羊クリスチャン教会牧師
SALTY-論説委員


日本のキリスト教界における「反日的」傾向は、隣国韓国の政治情勢と複雑に絡み合っています。「韓国は反日が国是」と揶揄されるも、それが贔屓目に見ても否定できない状況で、ソウル市内ではクリスチャン人口が4割近くになると言われているほどですから、当然日本のキリスト教界に与える韓国キリスト教の影響も大きくなります。
 韓国キリスト教の影響について特記すべきことは、1970年を前後して韓国のキリスト教の「親北」「進歩的」「民衆神学派」と呼ばれるグループの活動家たちが、続々と東京にやって来たことです。
朝鮮半島の南北対立の緊張の高まりから、1972年10月17日韓国の朴正煕大統領は全土に非常戒厳令を敷き、国会を解散させ「維新体制」をスタートします。これと前後して朴正煕政権の監視を避けるように、彼らは日本に来たのでした。アジアで最も自由に活動できる東京を拠点に、彼らは地下組織をつくり、世界的なクリスチャンネットワークを築くことに成功しました。

< 朴正煕政権における韓国の状況 >

戦後38度線で区切られた朝鮮半島の南北の分断と緊張は現在でもつづいています。今や北朝鮮の長距離ミサイルは米国に届くまでになり、核武装も最終段階を迎えようとしています。有名なニーメラーの詩のごとく、私たちが北朝鮮の脅威に対して無関心と妥協、不作為を繰り返した挙句に、目の前の脅威が如何ともしがたい深刻なものとなってしまいました。

朴正煕年政権(1961—1979年)・全斗煥政権(1980-1988年)以降、北朝鮮の脅威をもっとも軽く考えていたのは、日本国民であったのかもしれません。地政学的にも日本海を隔てただけの一党独裁反日共産主義国家の存在に、日本はもっと敏感にその脅威を感じ取っていいはずでした。しかしそうならなかった。つまり、ここに北朝鮮の脅威を相対化させ相殺させる親北勢力の世論工作が当然のごとくあったわけです。その世論工作の大きな担い手が、東京を拠点にした「韓国民主化キリスト者同志会」という秘密結社のクリスチャンたちでした。彼らは世界教会協議会(WCC)を利用して、世界的なクリスチャンネットワークを築いたのでした。
このクリスチャンネットワーク形成の重要な役割を担った呉在植(オ・ジェシク)氏は、後に次のように自伝で語っています。

韓国に厳戒令が敷かれてからは、世界各国に散らばっていた人たちが互いに電話で連絡し、状況を共有しながら、如何にすべきかについて議論した。当時、朴相増牧師がいたWCCを中心に、海外で活動している同志の国際連絡網がつくられた。互いに連絡のやり取りをしながら、みな韓国の状況について心配し、意見の交換をした。そして、何を成すべきかについて苦悩していた。
当然のことながら、海外ネットワークを作らなければならないという互いの共感を背景にして、WCCでの集まりの後、韓国を助ける組織をつくらなければならないというところへ、話は必然的に発展していった。人々は、自分が住んでいるドイツ、スウェーデン、アメリカ、カナダ、日本など様々な教会や団体が共に連帯してくれるよう、水面下で働いた。(『私の人生のテーマは「現場」』p.174-175.)

ただ、ここで特に覚えておかねばならないことですが、当時の韓国のキリスト教会およびキリスト者たちの多数派(保守的な福音派)は、朴正煕政権を支持していたのです。
韓国は北朝鮮から常にその存立を脅かされていたため安全保障の優先から、親北よりの言論や活動に対する統制・監視などで自由が制限されることについては、韓国国民もある程度はやむを得ないとしていました。また、北朝鮮の首都である平壌はかつて「東洋のエルサレム」と呼ばれるほどにキリスト者が多く、彼らの多くが共産主義の危険と迫害にあって南に逃げて来た経緯もあり、「反共」であり「反北」だったということもあります。さらに、その緊張の中でも韓国経済は発展し生活水準も上がっていたこともあって、そのようなことも朴正煕政権に対する支持となっていたわけです。

以上から、親北のキリスト者グループは韓国では少数派であり、それゆえに韓国国内よりも国外でのネットワーク化を彼らは戦略とせねばならなかったといえます。

< T・K生『韓国からの通信』 >

 彼らの工作活動の一つ、その象徴的なものが岩波書店の月刊誌『世界』に連載された匿名ペンネームT・K生による『韓国からの通信』(1973-1988年)でした。このT・K生は2003年に自ら、池明観(チ・ミンガン)であることを告白しています。また『T・K生の時代と「いま」』という自伝を出版して、過去を振り返ってもいます。

北朝鮮による脅威に対して朴正煕政権が戒厳令を敷き、親北勢力に対する言論統制と監視を強めると、彼らは日本の東京に居住しつつ現地「韓国」からのレポートという体裁で噓をついて、ある事ない事をごちゃ混ぜにした世論工作を展開したのでした。北朝鮮が酷い以上に、朴正煕政権があまりにも残虐非道な軍事政権を築いていると報告し続けたのです。
それが月刊誌『世界』に『韓国からの通信』として連載されると、各国に散らばっているキリスト者の同志たちが連携・連帯し、たちまち韓国へ、そしてアメリカ、ドイツなどへと拡散されました。日本では特に在日韓国人や在日朝鮮人のみならず、学生や言論人、知識人と広く読まれ、韓国軍事政権の残虐行為についての報告によって、北朝鮮の脅威は相対化され相殺されるようになったわけです。見事にこの世論工作は成功したといっていいでしょう。

 当オピニオンサイトSALTYの主筆である西岡力氏は、1988年7月の月刊誌『諸君!』(文藝春秋)に、『「T・K生」は「北」の手先だったか』という論文を寄稿しました。「韓国からの通信」が、「特定の政治的立場の人たちに都合のいいように、事実を歪曲しようとした、作為の跡が、はっきりと出てくる」ことを、具体例を挙げて批判したものでした。さらに、池明観氏が自らをT・K生であったと告白すると、西岡氏は月刊誌『諸君!』2003年10月号への寄稿において、この『韓国からの通信』が以下のような顛末になっていたことを伝えました。

 韓国の「月刊中央」(八八年四月号)のインタビューで、当時の安江良介「世界」編集長が、T・K生の報道した事実のうち、何パーセントが事実なのかと問い詰められて
「だいたい七〇~八〇%は事実だと思う。言論がたいへん自由である日本でも、記事内容が全部事実でない。T・K生という人物は民主勢力であるため、不自由な環境の中で通信を送って来ており、間違いも多いと思う。六〇%ぐらいは事実だ。彼(T・K生)は八〇%ぐらいが事実だと言っているが」
という発言をしたことをとらえてのものだった。四〇%は嘘であることを承知の上で、十五年間もT・K生の通信を連載したことの責任は重いということが1988年の拙稿の結論だった。
 その時に指摘したこと——「証言」と称するものは流言輩語の寄せ集め、北朝鮮への無批判体質等々——が概ね正しかったことは、『世界』の2003年9月号に掲載された池明観氏のインタビュー記事(『国際共同プロジェクトとしての「韓国からの通信」』)から明らかになった。池氏は『世界』で、T・K生が自分であったことを明かした。そこにはウソを発信しつづけたことへの反省がまったくなく、ただ自画自賛だけをくり返していて、それを読んだ私は強い不快感を感じたことをよく覚えている。

< 西岡力氏による『諸君!』2003年10月号での批判>

 西岡力氏の『諸君!』における『韓国からの通信』に対する批判論文は非常に重要なのですが、現在では容易に入手できるわけではないので、ここで私なりに大雑把に拾い上げて紹介しておきます。4つの事件についての批判です。

①人民革命党事件(1975年)
北朝鮮と結びついたとされる人民革命党に所属した8人に死刑判決がでたことで、T・K生は「平凡な市民が何も知らずに政府転覆、赤色政権樹立の『革命家』として殺された。」と語る。
⇒嘘
真相:朴正煕政権は北朝鮮とつながりのない者は特赦で処刑することはなく、そのことに対する信頼感が韓国には存在していた。
②光州事件(1980年)
朴正煕政権の次の全斗換政権時代に、T・K生はデモに参加している学生たちに軍隊が突入して無差別虐殺をして死者が2000人に上ると報告。
⇒嘘
真相:この光州事件については文在寅政権時代に至るまで詳細な調査が行われているが、弾圧された側が調査しているにもかかわらず当時の韓国軍が無差別虐殺をしたという事実は出てこない。
③88年大統領選
盧泰愚が大統領に当選・金大中が落選した選挙は不正選挙だった。
⇒嘘

真相:コンピュータは集計マシーンとして使われただけであり「開票過程から一定した得票率に構成」することなどは不可能であった。また金大中自身もさほど問題にしているようでもなく、それを真に受けていない様子だった。

④大韓航空機爆破事件(1987年11月)
T・K生は北朝鮮によるテロではなく日韓米による謀略だという驚くべきことを書いている。
⇒嘘
真相:語るまでもなく全世界の人たちがこれを嘘だと知っている。
<『韓国からの通信』の裏側 >

 

朴炯圭(ヒョンギュ)著『路上の信仰』および李仁夏著『歴史の狭間を生きる』は、どちらも「韓国民主化キリスト者同志会」のメンバーが自伝を書いたもので、『韓国からの通信』の成功を自慢げに語っています。以下のような経路で『韓国からの通信』は表にでています。

 まず、韓国キリスト教協議会(NCCK)の総幹事であった金観錫(キム・カンソク)氏の指揮のもとに、韓国国内の活動家たちから情報が集められます。それが韓国政府の監視をくぐりぬけて、複数の経路で日本に資料が持ち込まれます。それらがどの経路で持ち込まれたとしても、一度すべて呉在植(オジェシク)氏に集められます。これが池明観(チ・ミンガン)氏に渡されると、池明観氏は裏付け調査も事実確認もせず資料を取捨選択して、韓国国内の目の前に起こっている出来事として日本語で原稿を書き、月刊誌『世界』の安江良介編集長に渡されます。安江編集長はこの原稿を再検討し、手を加えます。カトリックやその他の人々にも文書と資料は送られたのですが、これが東京大学教授の和田春樹氏に渡ると、和田氏はこれを見て日本語の原稿を書き、安江編集長に届けたといいます。
呉在植氏が池明観に送った資料は、再び呉在植氏に戻され西早稲田の日本キリスト教会館の屋上倉庫に秘密裡に保管されました。このときの膨大な資料は後に韓国国立歴史編集委員会に寄贈されたということです。
韓国の朴正煕政権はいくら調査しても、彼らの動きを最後まで把握することができませんでした。日本には、彼らと連携・連帯していた日本人キリスト者も複数存在し、『路上の信仰』『歴史の狭間を生きる』にはその名前が挙がっています。後々、日本人キリスト者についても触れていきます。 

この『韓国からの通信』を秘密裡に創作していく経路において、呉在植(オ・ジェシク)という存在が重要な役割をしていることが分かります。当時、世界教会協議会(WCC)におけるアジア・キリスト教協議会都市農村産業宣教委員会(CCA・URM)の幹事として、呉在植氏は東京に事務所をかまえていました。そして、その彼はその役職にあって潤沢な活動資金を引き出すことができました。また、その後には韓国ワールド・ビジョンの会長となって、北朝鮮に年に2度3度入ることができ、ワールド・ビジョンに集められた支援金から莫大な資金を北朝鮮の経済支援に回すことに成功しています。彼についても、次回『第4回 日本のキリスト教の反日的」な傾向』で紹介していきたいと思います。

<  クリスチャンネットワークの危険利用  >

 世界につながるクリスチャンネットワーク自体が悪いものなのではありません。問題は誰が何のためにそれを用いるかです。日本人の多くは気づかないことなのですが、世界にはクリスチャンネットワークの広がりというものがあります。日本にはクリスチャンが少ないけれども、当然のことながら世界にはたくさんいるのです。

 これを語るとき、私は次のような状況をイメージをしてもらっています。マイクが少数に握られ、スピーカーが世界各国にある状況です。マイクは音を拾い電気信号に変える機能です。スピーカーは電気信号を音に変える機能としてあります。つまり、日本では聞こえないが、世界ではあちこちに情報が拡散され日本人には知らぬところで、マイクを握った少数派の情報が回るという状況です。クリスチャンネットワークは全世界につながっています。とくに、世界基督教会協議会(WCC)なども媒体として利用されるならば、なおさらそのネットワークがもたらす効果は絶大です。まず初めに、これで大きくダメージを受けたのが、朴正煕政権だったといえましょう。マイクは韓国国内にすらなく、東京にあって全世界に拡散されたのです。
このネットワークのターゲットが、韓国の保守政権が崩れた後、日本に対して向けられたらどうでしょうか。
「従軍慰安婦の強制連行」やら「徴用工問題」などでのデマ話をやっとひっくり返せたのが、昨今の話であったことは言うまでもありません。

次回予告
 第四回 キリスト教の反日的な傾向(4)~その原因を探る
「韓国民主化キリスト者同志会」に呼応して動いた日本人牧師たち

第一回 キリスト教界の反日的な傾向(1)~その原因を探る

第二回 キリスト教界の反日的な傾向(2)~その原因を探る