【寄稿】 第0回 「反日」とは何か?−中道平太−

中道 平太
 ・ 日本同盟基督教団の信徒
 ・ 関西在住

 こんにちは。中道 平太(なかみち へいた)です。日本同盟基督教団の信徒で、関西在住です。いわゆるペンネームですので、検索しても出てくる情報はTwitterとInstagramだけだと思います。ペンネームを用いるのは個人の特定を避けて職場や教会などの所属組織を守るためであり、発言に責任を持たないためではありません。すでに本人をご存知の方は、アウティングをなさらないようにお願いいたします。

 SALTY編集者の皆さまとは発刊前から個人的なお付き合いがありましたが、これまでは一人の読者に過ぎませんでした。
 先日、あるSNSにおける対話の中で、「日本キリスト教界の反日化」という命題の提議に対して「反日の定義は?」って聞いてきた人がいました。
 すなわち、「国会議員が偽証したり、公務員が公文書の隠蔽をするのも反日だ。つまり、定義が曖昧な語句を用いた命題は意味がない。したがって特定の主義思想に誘導しようとする悪質な提議である」というのが主張でした。

 たしかに「反日」という言葉は、決して友好的なキーワードではありません。この言葉を使うことすら憚られる人もいるかもしれません。

 それではなぜ、この言葉にフォーカスを当てて話していくことが必要なのでしょうか。それは、日本のキリスト教界が一致していくためです。

 私たちが愛する日本を分断するかのように聞こえる「反日」という言葉。それだけでも心を揺さぶられて穏やかな気持ちではいられなくなるのに、「キリスト教界の反日化」などと聞かされては、キリスト教界の分断を図っているかのように思われるかもしれません。
 しかし、「キリスト教界の反日化について」というアプローチで警鐘を鳴らす著者たちは、私たちに分断を煽るために反日という言葉を用いているわけではありません。むしろ、日本人キリスト者が一致するための課題として真剣に取り組んでいます。
 そして、反日という言葉に反発してしまう人たちもまた、分断ではなく一致を望んでいるはずです。お互いに一致を望むもの同士が、たった一つのキーワードが元で分断されてしまうのはとても残念なことです。

 「反日」という言葉が読む人によって意味が変わるのであれば、一致のためにはふさわしくないでしょう。そうであれば、今後は使うべきではないのかもしれません。

 そこで、次回からの3回に渡る寄稿で、キリスト教界という文脈において「反日」という語句が与える意味の定義について考えていきたいと思います。この論考を通して、日本人キリスト者の一致を阻むものが何なのかが見えてくるかもしれません。

第1回 に続く