最後のマエストロ達(3) −亀井俊博−

 

 

 

 

バイブル・ソムリエ:亀井俊博

「西宮北口聖書集会」牧師
「芦屋福音教会」名誉牧師

「最後のマエストロ達」(第3回)

 

(第2回)より

(d)最後の K.マルクス

(1)「人新世の『資本論』」

 終わりに昨年刊行以来ベストセラーの少壮経済・社会学者斎藤幸平(1987~)「人新世の『資本論』」を“最後のマルクス”と言う視点で、少し詳しく取り上げます。その理由は本書が人類存亡の危機、地球環境破壊の解決策として注目され多くの読者を得、英訳が出版されている程ですから。

 さて斎藤の研究によると経済学のマエストロ、カール・マルクス(1818~1883)は主著たる資本主義の崩壊と革命による社会主義社会の到来への実践書「共産党宣言」と、資本主義経済社会の社会科学的分析研究書「資本論」を出版後、15年もの長い沈黙があった。しかし最近、晩年までの長期沈黙時代の膨大な研究ノートが整理解明刊行され MEGA(Marx-Engels-Gesamtausgabe)と呼ばれる。そこで有名な大月書店版「マルクス・エンゲルス全集」とは別に、新しい「マル・エン全集」100巻刊行が進み、斎藤もその編集者の一人だと言う。とりわけマルクスの「研究ノート」が新たに発見され、マルクス晩年の驚くべき、思想の大転回が発見されたと言う。これを私は”最後のマルクス“と言う訳です。

(2)最後のマルクス思想

斎藤によると、マルクスは資本主義を究極まで成長させ、階級闘争激化による崩壊の危機にまで至らせる。そこで労働者を搾取する資本家を倒す革命を起こし、”能力に応じて働き、必要の応じて受け取る“、人類理想の共産主義社会が実現すると前期著作「共産党宣言」(1848)、「資本論」(1867)で結論づけた。

 しかしその後15年の沈黙期間中、化学者ユストウス・フオン・リ-ビッヒの「略奪農業」批判で展開される、化学肥料による農業生産増大策が大地を疲弊させる、資本主義農業の悲惨な報告を見た。無限の利潤を追求する資本は労働者搾取だけでなく、自然からの資源・エネルギー略奪も行い、地球環境を破壊する。よって生産力の無限追及の経済成長的資本主義を止め、さらには同じ経済成長を目指す前期の共産主義も断念。持続可能な自然循環型経済社会、脱成長型定常経済社会を形成しなければ地球は破滅する。そのためには近代以前の共同体の再評価が必須。そこでは財は私有ではなく、共有財(コモンズ)であり、自然環境を収奪せず自然破壊の無い、自然環境循環型持続可能社会経済が存在していたからだ、と言う。

 最後のマルクスは近代以前の共同体研究に没頭していたと言う。私が若い頃、マルクスが晩年ロシアの古いミールと言う共同体を、ロシア革命の基盤に勧めていたと読んで、怪訝に思っていましたが、斎藤の論でやっと疑問が解けた。しかしロシア革命の現実はミールを解体、国家による成長路線計画経済のコルホーズ、ソホーズ共同体形成を強制したのです。そしてソ連型計画経済共産主義は、自由市場経済の資本主義に敗退したのが歴史的現実です。最後のマルクス思想は無視されたのです。

 そこで斎藤は共産主義コミュニズムを、最後のマルクス思想から再定義し、ソ連型の国家による経済成長計画経済を目指す共産主義から、「コモン」主体のコミューン(共産主義共同体)による共産主義コミュニズム(コモン・イズム)回復を唱える。「コモン」とは、社会的に人々に共有され、管理されるべき富のことを指す(アントニオ・ネグリ、マイケル・ハート共著「帝国」)。それを近代以前の古い共同体と区別してアソシエーション(労働者たちの自発的な相互扶助)とマルクスは呼んだ。アソシエーションにこそポスト資本主義の道が拓ける、と言う。

 さらに斎藤は、現代の地球環境危機は、地質学者が「人新世」地質年代到来と呼ぶ、人類が地球史上初めて環境を支配する、それも地球環境破壊の悪役となった時代になったと言う。その解決のためには、前期マルクスではなく、晩年のマルクスを甦らせてその言葉に聞くべきだと言う。まず、現代の流行のSDGs(持続可能な開発目標、 Sustainable Development Goals)運動は免罪符、気休めいやむしろ現代版「大衆のアヘン」に過ぎないとまで説く。そんなごまかしではとても環境破壊は解消できない。グリーン・エコノミー推進者にとって不都合な真実を示す数々のデータが斎藤によって提示され、SDGsの欺瞞性を完膚なきまでに明らかにしている。

 そもそも資本主義は希少価値のあるものを「商品」して「市場」に出して、需要と供給のバランス点が「価格」となり、無限の利潤を追求するシステムである。だからあらゆる危機もそれを希少価値発生のチャンスととらえ利潤を得ようとする。いわゆる惨状便乗ビジネスと言われるものです。環境危機も結局環境ビジネスのチャンスとして成長し続け、部分的には環境に優しくても、結局総体としては環境破壊は進む(合成の誤謬)。だから成長路線を止め、脱成長経済社会を形成する他に地球が生き伸びる道はない、と説く。

(3)コモンズ(公共財)思想

 そのためには最近再注目の経済学者宇沢弘文の「社会的共通資本」論の説く、水、大気、森林などの「自然環境」、水道、食糧、道路、電力・ガスなどの「社会的インフラ」、教育、医療、金融などの「制度資本」が市場競争に馴染まない「社会的共通資本」の構成要素である。しかしこれらはレーガノミクス、サッチャリズム、中曽根改革、小泉改革、アベノミクス等の新自由主義の方針で公営化から民営化にして、営利に走り市民はかえって困窮しているのです。そこで公有(国有)ではなく、市民の手による公共管理(市民営化)し、他の部門は市場競争に委ねる、が再評価されています。

 しかし斎藤は市場競争のある限り環境破壊は進むため、市場を残す宇沢の論を不徹底として、全ての資源、労働をコモンズ(公共財)としてアソシエーションの「共同体管理」とする。またソ連型国家計画経済も国有で失敗した経験から学び、私有でもなく、公有でもなく、共有(コモン)による新しい共産主義社会コモン・イズム(コミュニズム)、を目指す以外に地球環境破壊の解決はない。これを説いた最後のマルクスに聞けと言う。

 私はこの若き俊才の登場に、人類の未来を感じます。この大部の書が既に20万部もの読者を獲得し、英語への翻訳版も出版される。卓越した語学と知能は勿論、過去のものと思われたマルクスを現代から将来にかけて人類の課題解決のため、復活させたその力量は高く評価されます。民主主義・資本主義の行き詰まりを嘆く声は大きい。しかし次の社会像が描けないもどかしさ。そこに一筋の光を21世紀世界に投じた俊英のマルキスト斎藤幸平氏を日本の誇りとします。

 しかし、私は斎藤の分析には教えられるところ多いのですが、解決策には多くの疑問もあり、賛同できない面があります。願わくば同世代の若き福音派キリスト者社会科学者が、マルクス者に優る構想力を抱かれるよう望むものです。

 以下私の評価を述べます。

(4)最後のマルクス思想批判

①世俗的終末論への批判

 第一に、斎藤の厳しいSDGs資本主義、グリーン・キャピタリズムの欺瞞、問題性指摘には目が覚まされました。しかしそれが(私有)制資本主義を止めよ、市民のコモンズ(共有財)管理によるコミュニズム社会主義革命以外に道はない。勿論歴史的実験に失敗した国家管理(公有)計画経済の旧ソ連、東欧は本来のマルクス思想ではなく論外だ、と説く事に疑問を感じます。全ての革命思想には終末論の要素があります。にっちもさっちも行かなくなった事態を、メシヤ到来でエイヤッと一気に解決するのが終末論の特徴です。マルクスはフォイエルバッハ路線の無神論ですが、ユダヤ人として無意識に終末論を受け継ぎ、終末に到来するユダヤ思想のメシヤ(救世主)を革命にすり替えたのです。しかしF・フクヤマの終末論・千年王国的考察「歴史の終わり」論の後も歴史は終わらず続いています。次のパラグラフはフランス革命に現出した世俗的終末論を批判した、保守思想の父と呼ばれる E.バーク(1729~1797)を紹介したもので、私の友人ジャーナリストの文であり要を得た内容をご紹介します。

 “イギリスの思想家バークは、フランス革命(1789年)の翌年である1790年に「フランス革命についての省察」という本を書いて、隣国で起きた革命を厳しく批判している。数年いや数十年後にフランス革命について批判している本を多く見るが、バークの賢明さには驚かされる。彼が言っているのは、「私たちの理性は完璧なのか」ということである。誤りを持った人間が、完成された社会を一直線につくることは出来ず、常に暫定的であらざるをえないのである。では、そのとき頼るべきものは何か。理性を超えた英知があるべきと考えるべきとバークは言っている。かと言って「特定の過去に回帰すべきだ」という復古主義はとらない。その時に範を求めるべきは、「過去」の厚みの中であり、それを踏まえ、無名の人たちが積み上げた経験知に学びながら、改革をしていこうという考えである”(「21世紀の大衆」田辺正和)。

 私はキリスト者として、キリスト再臨による歴史の終末到来を希望の神学として信じています。しかし歴史が続く限り、その様な宗教的終末論の世俗化は危険です。使徒パウロも当時の熱狂的終末待望信徒が、日常生活を放棄して終末を触れ回る愚を見て、「努めて落ち着いた生活をして、自分の仕事に身をいれ、手ずから働きなさい」(テサロニケⅠ、4:11)と警告していますよ。宗教改革者ルターにも当時の終末熱狂主義者に“明日世の終わりが来ても、わたしは今日りんごの樹を植える”と説いたと言う逸話があります。

 キリスト者は資本主義に原罪的構造悪があるが、共産主義到来時には構造悪は存在しなくなり地上に楽園が生まれる、そんな終末論的短絡的楽天主義は持ち合わせていません。「全ての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっている」(ローマ3:23)と聖書の洞察の方を信じます。方向転換をし(聖書の説く“悔い改め”とは方向転換です)、バークの説くように、気づいた者から地球環境破壊の罪悪から転換し保護の方向に一歩々、暫定的ではあっても歩を進めて行き、やがてそれが大きな行進となるのです。「あなたたちが科学に耳を傾けないのは、これまでの暮らし方を続けられる解決策しか興味がないからです。そんな答えはもうありません。あなたたち大人がまだ間に合うときに行動しなかったからです」(2019・4・23,英国議会でのスピーチ)、と旧約預言者アモスのように環境破壊の罪を指弾する、現代の若き女性預言者グレタ・ツンベリさん初め、世界の目覚めつつある青年たちはその先駆者でしょう。

②脱成長論批判

 斎藤の説は、最後のマルクスがそれまでの「成長論」を捨て、「脱成長論」にシフトした。そうしないと地球資源、エネルギーを略奪し、環境破壊により人類、自然共に滅びてしまう。だから資本主義以前の持続可能な、循環型経済社会の基盤であった「共同体」を再評価して、新しいコミュニズム・共産主義、持続可能循環型コミューン(アソシエーション)形成による、脱成長の「定常経済」を目指す、というものです。下記は批判です。

(第一)、「成長」指向の近代資本主義ではなく、「持続可能」指向の前資本主義を担った「前近代的共同体」を最後のマルクスは評価したと言う。しかし、経済人類学のカール・ポランニー等は前資本主義経済に生きた前近代的共同体に「互酬性」を発見した。つまり市場における商品の稀少性を価値とする使用価値の近代資本主義の到達した弊害を、脱価値論の「互酬性」回復によって欠けを補おうと言うのです。それに対して最後のマルクスは「使用価値」の競争戦場である“市場”ではなく、“非市場”のコモンズ(共有財)化に価値を発見した、と言うのです。と言う事は同じ前近代的共同体には様々な側面があり、最後のマルクスの発見が全てではないと言いう事です。「持続可能性」と共に「互酬性」も取り入れた21世紀社会を描く事ができるのです。

(第二)、確かに私も「定常経済」を評価しますが(拙著「カイザルと神」社会神学)、それは資源・エネルギーの自然からの略奪を極限まで無くする自然循環型経済であって、「成長」そのものを否定するものではありません。「脱成長」は経済的には自殺行為でしょう。物質的成長のみを「成長」と考えれば、確かに地球資源には限界があり、また環境破壊に至ります。勿論、中国の様に月面から資源を略奪するプランも現実化してはいますが。

 それはさておき「成長」には物質的価値増殖だけでなく、文化的価値増殖がある訳です。この面では自然環境に負荷を掛けることなく無限の「成長」が可能です。江戸時代250年、日本はまさに循環型持続可能経済社会「定常社会」を形成しました。しかしその間、茶道、華道、浮世絵、日本画、能、人形浄瑠璃、からくり、歌舞伎、俳諧、すし・和食、さらに美のための美追及の芸術作品でなく、名もなき民衆の日用品の美(用の美、柳宗悦)に現れた民芸の美、また権力イデオロギーの儒学・宗教の仏教、ヨーロッパの蘭学に対して、民衆の学「国学」(契沖、本居宣長)の興隆・・後の世界文化に影響を与えた、素晴らしい文化形成を行なってきました。それらは有償(市場)、無償(非市場、互酬)共にあった文化価値の創造でした(「歴史の終わり」F.フクヤマ)。

(第三)、歴史人口学者速水融は、西欧と日本の近世社会形成における歴史的平行現象を取り上げ、西欧近代革命はインダストリアル・レボリューション(産業革命)であり、日本近世革命はインダストリアス・レボリューション(勤勉革命)であった、と解明(「近世日本の経済社会」)。西欧近代の機械・蒸気革命に対して、日本江戸時代近世は人力投入勤勉革命だったため彼我の差ができたと説く。しかし私は速水の江戸時代人力「勤勉革命論」に対して、(第二)で取り上げたような元禄文化、化政文化を生み出した、江戸時代人力「文化革命」でもあったと高く評価するのです。まさに江戸時代は今でいうハードからソフト・コンテンツ経済社会へのシフト時代であったのです。現代日本のマンガ、アニメ、ゲーム、ロボット、日本食の世界的評価に通じるものです。

 人間のイマジネーション、想像力、創造力次第で無限の「成長」可能性があります。勿論これをすべて「市場」に投入し「商品」化し「消費」し、「経済価値」に換算する貧困なる精神でなく、「非市場」の贈与、互酬の共生社会と言う、シェア(分かち合い)社会形成の豊かな精神を目指すことは言うまでもありません。この面で「脱成長論」は、却って人間の無限の可能性を抑圧するものです。むしろ新しい、質的「成長」論による価値創造を目指すべきでしょう。

③共同体論批判

 次に、共同体論批判です。マルクスも近代以前の共同体が、循環型持続可能社会の担い手であるとは言うが、決してそのままで良いとは言っていない。それを改善する必要があると述べているようです。コモンズ(公共財)を誰が管理するか、それがアソシエーションだと言う。

 私の批判の第一は“管理”でなく、“経営”だと思います。経営こそはウエーバー・小室直樹も指摘する、近代資本主義の生み出した資本による価値増殖の核心であり、ポスト資本主義にも継承されるべきものです。経営を無視したためソ連型計画経済は失敗したのであり。アソシエーションも同様です。

 批判の第二は、コモンズ管理・経営の主体が問題です。宇沢弘文も著作「社会的共通資本」で、讃岐の満濃池は空海の灌漑修築以来、1300年の地域共同体管理の歴史があり、コモンズ管理の実例として高く評価している。しかし私は讃岐香川の出身で、同地における近代以前の共同体の息の詰まるような人間関係から、解放されたくて都会に出た者であり、とてもそんな前近代的共同体に戻りたいとは想わない。ご存知の様に江戸時代は250年、環境循環型持続可能性経済社会であったでしょう。そこでは限られた食料を賄えない人口増は悪で、子供は間引き、老人は姥捨て山、生産力増大の発明は禁じられ、定常社会を維持しない思想は危険視され村八分、濃密な相互扶助は同時に、同調圧力の強固な相互監視社会であったのです。現代日本に受け継がれた病根が存在していたのです。果たしてこう言う窒息しそうなエートスなくして、脱成長の循環型持続可能共同体が形成できるのでしょうか。私はこの古い共同体は一端解体し、近代の自由な個人主体の尊重と、平等な個人相互の契約による共同体形成が良い。それをアソシエーションと呼ぶか、否かは別にその中身が重要です。

 フランス革命で多くの中間団体、ギルド、アカデミー、教会等が破壊される混乱の中、アメリカを民主主義研究のため訪れ、自由な個人の政治参加のための共同体形成のモデル、タウンシップ(基礎的共同体)、タウン・ホール、タウン・ミーテイングにこそアメリカン・デモクラシーの源があるとの発見したトックビルの研究(「アメリカのデモクラシー」)を今一度評価すべきです。つまり自由とは単に仏革命のような抑圧からの解放(リバテイ)だけでなく、公的領域(政治)への参画(フリーダム)にあると説く、アーレントの「革命について」の意義を深く思うべきです。

④私有・公有批判

 さらに、資本主義の本質が利潤追求であると言う事ですが、それは結果であって本来は、神と隣人愛に仕えると言う、プロテスタンテイズム・ピューリタンの宗教的精神から、資本家・労働者に共有された近代資本主義のエートス(職業倫理、勤勉)は生まれた、と説いたM.ウエーバーの研究を思い出すべきです(「プロテスタンテイズムの倫理と資本主義の精神」)。ピューリタン信仰を失った利潤追求を目的とする現代資本主義の精神はその鬼子であって、「復初の説」本来に立ち返る、“初めの愛”(黙示録2:4)のエートスへの大転回が必要なのです。私有を止めて、全ての財を公共財(コモンズ)とするコミュニズム共産主義社会を、ピューリタン信仰抜きで果たして人間はこれを正しく管理、経営できるか、ソ連・東欧・中国・・壮大な歴史の実験で、ことごとく失敗しているではありませんか(「日本資本主義崩壊の論理」小室直樹)。

 むしろ、全被造物の創造者で所有者なる神が人間に財の管理を委託し、財の占有者(私有)なる人間は、財の所有者(オーナー)である神に対して管理責任・説明責任(アカウンタビリテイ)があると言う、スチュワードシップ(管理者義務精神、説明責任)こそ、正しい財の管理の在り方ではないか(創世記1:26~28,マタイ25:14~30)。新自由主義の元祖として何かと批判される、ノーベル経済学賞のフリードリッヒ・ハイエク(1899~1992)ではあるが、その著作「隷従への道」にはなお十分聞くべき真実がある。すなわち私有(自然人、法人の)こそ責任の根拠であり、公有(国有)では責任が曖昧となる。また公有(国有)による集産主義と計画経済は結局、ナチス、ファシズム、ソ連、・・そして現代中国に見られる一部エリート(ナチス、ファシスト、共産党)による人民支配と言う、「全体主義」となり個人の自由は奪われ「隷従への道」を歩む、と警告しています。たとえ公有でなく斎藤の説く共有(アソシエーション)にしても結論は同じです。財産私有による自由市場こそ民主主義の基盤である、と警告したハイエクの主張は真実であると思う。日本国憲法第29条にも「財産権はこれを侵してはならない」と宣言しています。

 但し、私有に基づく自由競争に馴染む市場セクターと、共有による共生に向いた非市場セクターがある。そして非市場セクターは、中間団体としての非営利法人、協同組合、NGO、NPO等や地域共同体の経営管理に委ねるのが良い。さらに現代経済はグローバルな面と、ローカルな面があり、これを市場と非市場(コモンズ、公共財)の領域に分け、これらの4要素のマトリックスとするのが良いと言うのが、私の論です(拙著「カイザルと神」社会神学)。

 それを「脱成長」アソシエーションのみにするしか、環境破壊に対抗できないとする斎藤の論は極端です。単純化は分かりやすく、大衆受けします。この道しかないと訴えた、小泉改革、アベノミクス、の弊害を思い起こせば十分です。
我々は世界史の経験した成功失敗の諸英知を整理して活用すべきです。勿論目標は一つ、地球環境を守りつつ人類の持続可能性を探る、これをカソリックの用語を借りて「共通善」(平たく言えば、「みんながしあわせに生きるために、みんなにとって善いもの」です。“ラウダーデ”より、聖パウロ女子修道会)と呼びたいものです。

 また市民参加のアソシエーション形成を斎藤は説きます。資本は自己の利益しか考えず、労働と自然の搾取、略奪しか考えない、株主資本主義から企業を解体してコモンズ(共有財)にして市民参加のアソシエーションにすれば、労働者搾取と環境破壊から世界を救うと言う。それほど人間は甘くない、歴史のどこにエビデンスがありますか。ですから、市民参加のアソシエーションの要素を、現存の全ての企業、営利企業、非営利団体、国家・地方政府、国際機関に取り入れつつ、内部から改革していくのが良い。それはメソジスト派信徒P・ドラッカーの「非営利組織の経営」に示されています。勿論私有や、共有に馴染まない国家・地方政府機能も国民国家が存続する限りはある訳ですから、公有(国有)も必要です。要するに私有、共有、公有の時々のベスト・マッチング(最適解)が必要だと言う事で、どれか一つだけで十分と言うのは極端で危険な思想だと言うのが、バークの説く歴史に蓄積された英知の教えるところではないでしょうか。

(C)最後のイエス

(1)史的イエスと最後のイエス

 イエス33年余の生涯を、いわゆる3年余の公生涯を中心に編集した4つの「福音書」は様々な個性的視点から物語っています。現代新約聖書学では、いわゆる「第三の探求」として、犬儒学派的教師、カリスマ的遊行治癒神、辺境からの反権力的抵抗者、私は「まれびとイエス」と表現・・史的イエスの宗教社会学的研究が盛んです。しかし

 全福音書は、過重なまでの比重で「受難物語」を最後のイエスとして、贖罪のメシア像を提示しています。

(2)マエストロ達の最後の思想と最後のイエス

 ボンフェッファー的に表現するなら、史的イエスは究極以前の救済者であり、最後のイエスこそは究極の救済者キリストである、と言う事です。どんなマエストロ達の描く理想的世界も、人間の罪から免れるはずはないのですから、究極の救済者イエス・キリストの贖罪がどうしても必要なのです。

 本論でのべたマエストロ達、思想的巨人たちの最後の思想は、確かに我々に様々の貴重な英知を与えてくれたが、それは究極以前の救済であり、最後のイエスの受難、人類の罪の贖罪あってこそ生かされる究極以前の救済的英知なのです。最後のイエス抜きには、思想的巨人の最後の思想は無に帰し、最後のイエスにあってこそ、もろもろのマエストロ・巨人的思想家の最後の思想は生かされるのです。

「ユダヤ人はしるしを請い、ギリシャ人は知恵を求める。しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人には躓かせるもの、異邦人には愚かなものであるが、召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシャ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである」(コリントⅠ、1:22~25)

(D)終わりに

 最後のイエスは別にして、最後のハイデッガー、ヴィットゲンシュタイン、丸山眞男、マルクスと、彼らの最後の思想を取り上げてきました。共通して思うのは、彼らが若き日に悪戦苦闘の結果完成した思想を、長い沈黙の後、惜しげなく捨て全く違ったものにたどり着いた事です。そしてヴィットゲンシュタイン以外は、最後の思想をまとまった著作に表す事ができず、ノートや講演、講義に残し、後世の研究者が、やっと最近その全貌を明らかにしつつあると言うことです。今までのそれぞれの思想が、全く新しい転回・展開を見せ、しかも現代社会の課題に、大きなヒントを与えているのです。浮世絵のマエストロ葛飾北斎は、90才になっても絵筆をとって新たな画境を目指し、傑作をものにしようと、最後の作品小布施の “八方睨みの鳳凰図” を体力を失い、娘に仕上げさせたとか。“天我をして五年の命を保たしめば、真正の画工となるを得べし”、かくありたい。

 彼らマエストロ達の生涯衰えない探求は、私の様な凡人には到底及ばないものですが、高齢化時代の生き方として、生涯現役、生涯未完成の思いで精進する励みとなります。実例をあげると、イエスの弟子の一人ヨハネは、若い頃は短気で直ぐキレ、イエスからボアネルゲ(雷の子)とニックネームを付けられたほどでした。しかし弟子の中で唯一人、100才過ぎるまで生き延び、「神は愛なり、兄弟たちよ互いに相愛せよ」と説いて、愛の使徒と呼ばれるまでに変貌した伝承は、高齢化時代へのモデルです。

 またマエストロ達の肩に乗って私のような凡人も高い視点を得たように、我々の肩に次代の若者を載せられる様、凡人にも彼らの業績を次代に伝える責任があるのです。

 さらにもう一つ、別の面のある事を忘れてはなりません。歴史学者マイネッケが、我々は “パンタ・レイ” 万物は流れる、とタレスが説いたように、絶えず変化し続ける世界を認識する必要がある。と同時に“我に支点を与えよ、さらば地球をも動かせて見せる”と、アルキメデスが述べたように世界と人生の不動の原点を求める事も忘れてはならない。

 そう、松尾芭蕉が簡潔に “不易流行” と申しました。我々は “流れる、流行” 即ち生涯成長し、変化を恐れてはならない。しかし、それだけでは絶えざる不安、あせり、脅迫観念に生きなくてはならない。どうしても永遠不動の人生と世界の立脚点、支点、不易なるものが必要なのです。そこにこそ平安があり、しかもそれは生ける脈動点として、我々に生きる勇気を与えてくれるものです。それこそ最後のイエスが、十字架と復活の姿で与えられた、罪の赦しと、死に打ち勝つ復活の力、永遠の生命、神の愛の言葉なのです。

「人はみな草のごとく、その栄華はみな草の花に似ている。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は、とこしえに残る。」ペテロ第一の手紙1:24,25

 

 (第3回・最終回)

 

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● <ご案内>

「声でつづる昭和人物史」(NHKラジオ第2放送)

放送時間:月曜日2030分~21時、
     再放送:翌週月曜日10時~1030
丸山眞男1914322日~1996815日、享年82歳)
 82日(月)「丸山眞男と戦後日本社会、民主主義の発見」
  (19961118日)
 89日(月)「丸山眞男と戦後日本社会、民主主義の発見」
  (19961118日)
 816日(月)「丸山眞男と戦後日本社会、永久革命としての民主主義」
  (19961119日)
南原繁188995日~1974519日、享年84歳)
  :聞き手は福田歓一東大教授(当時)
 823日(月)「この人と語る」①1968316
 830日(月)「この人と語る」②1968316

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亀井俊博(かめい としひろ)

1942年香川県に生まれる
単立「西宮北口聖書集会」牧師、「芦屋福音教会」名誉牧師
同志社大学法学部法律学科卒、日本UPC聖書学院卒
(同志社大学神学部、神戸改革派神学校、神戸ルーテル神学校聴講)
元「私立報徳学園」教師、元モンテッソーリ幼児教室「芦屋こどもの家」園長
元「近畿福音放送伝道協力会」副実行委員長、

*<亀井俊博牧師のブログ>
「西宮ブログ」の『バイブルソムリエ


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「アルファ新書シリーズ」全7冊 <電子書籍版・POD版>
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(7)「カイザルと神」ナラティブ社会神学試論

(5)まれびとイエスの神」講話(人称関係の神学物語)

(6)「時のしるし」バイブル・ソムリエ時評

(3)「モダニテイー(上巻):近代科学とキリスト教」講話

(4)「モダニテイー(下巻):近代民主主義、近代資本主義とキリスト教」講話

(2)「人生の味わいフルコース」キリスト教入門エッセイ

(1)「1デナリと5タラントの物語」説教集


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