本来語るべき統一協会問題 ~市議会は裁判で統一協会に負ける~ -中川晴久-

 

 

 

中川晴久
東京キリスト教神学研究所幹事
日本キリスト神学院院長
SALTY-論説委員

< はじめに >

2022年7月8日、安倍晋三元総理が暗殺されて以降、統一協会問題は本来的なものでなく政治利用されてしまった。政治問題化する方向で世論が煽られ報道されていることに対して、私は当初より警鐘を鳴らしてきた。同時に、私は繰り返し「安倍元総理と統一協会は関係ない」と伝えてきた。事実、今に至るも憶測以上の何の証拠もでてきてない。統一協会と直接関係があったとすれば、トランプ氏が出るということで一緒に出演したビデオメッセージのみとなっている。しかし、時の経過は何が真実であったか、誰が真実を語っていたかを明らかにしてしまう。
私は統一協会と安倍元総理の双方をずっと見てきた。そのような者にとっては、ワイドショーが偏向した情報を発信し、世論が煽られ、それをワイドショーがさらに加速させている状況を見せられると、人々が真逆に全力疾走しているかのように思えてしまう。以下、統一協会問題として本来語られるべき事とこの問題のあるべき方向を確認したい。

<統一協会問題の中心>

統一協会問題の中心は歴史認識問題が背景にあり、韓国の「反日」と日本の「自虐史観」が大きく関わっている。統一協会の日本人信者は、日本の過去の朝鮮半島統治のための贖罪意識とその罪滅ぼしのために献金をする。これを日本人の先祖の罪を清算するためにやっている。だから自分たちは「親日だ!」とすら主張する。まさにそれこそ戦後教育のいわゆる「自虐史観」であり、韓国の「反日」の肥やしであることに気づいていない。
もし私たちが本当の意味で統一協会から日本人を本当に解放したいのであれば、今まさに歴史認識にメスを入れるべきであろう。

ところがテレビメディアから流れる情報は、政治家と統一協会の関係、とくに自民党の安倍派叩きのために利用される政治化された問題ばかりであって、歴史認識問題はサラっと触れられる程度である。この統一協会問題を政治利用したい思惑の方がずっと大きいことが分かる。統一協会の過去の問題行動が日本国民に知れ渡り、警戒心を喚起できたことは不幸中の幸いであったが、そんなことをいつまでもやっていれば、後々その歪みが様々な厄介ごとを引き起こし、それがめぐり廻って負の遺産を抱えることになるだろう。

<懸念すべきこと>

私が懸念しているのは偏った情報による世論の煽りで、行き過ぎた事態に発展することである。案の定、富山市議会に始まり、大阪府富田林市議会、大阪市議会、大阪府議会および北九州市議会が「統一協会との関係を一切断つ」決議を行い、逆に統一協会信者がその決議の取り消しを求めて提訴される事態となっている。


提訴について説明する徳永信一弁護士の解説(動画)

この裁判は統一協会側の勝つ可能性がかなり高い。むしろ統一協会が勝たねば、日本の司法自体が議会制民主主義の根幹を脅かすという自己矛盾を抱えることになる。
「統一協会との関係を一切断つ」決議を行った議会側が裁判に負ければ、統一協会は勝訴結果を元に結束を強め、ますます自分たちの存在の正当性を主張することにもなるだろう。
「統一協会との関係を一切断つ」という決め事は議会の場でなく、本来ならば各議員の自己判断として、最低でも裏方の見えないところでの各政党や派閥レベルの方針や決め事にとどめておくべきだった。

< すでに騒ぐのが10年以上遅い >

何を根拠に各議会は「統一協会との関係を断つ」決議をしたのか。
それこそ私が統一協会の危険性について騒いでいた頃、10年以上前であれば「反社会的」根拠も明確にあげられただろう。

多くの問題が起こっても反省せず決して恥としない統一協会とはいえ、未だ刑事事件を起こしていない。そして民事についても、2009年以降の統一協会のコンプライアンス改定以降、消費者庁に寄せられた霊感商法被害の相談件数は激減している。教組文鮮明が死去した2012年の229件から2021年には27件へと激減している。消費者庁への相談件数は、他の宗教の方がすでに統一協会を上回っているという話もある。もやは、「統一協会との関係を断つ」ことを決議する根拠がない。
つまり、世間が統一協会問題について騒ぐのに少なくとも10年以上遅いのだ。

< ボランティアの意義 >

富山市、大阪府富田林市、大阪市、大阪府および北九州市議会が「統一協会との関係を一切断つ」と決議したことは、統一協会関係者の選挙ボランティアのみならず政治参加を拒否する表明でもあり、これは民主主義の根幹である「信教の自由」「議会への請願権」を脅かすことになる。

日本人がイメージするボランティアは大体のところ「自我を捨ててする社会奉仕」といった感じではないだろうか。だがこれは欧米のボランティア概念と真逆である。
ボランティア活動は米国において盛んで、その流れが日本にも入ってきた経緯がある。米国大統領選でのクリスチャンたちの選挙ボランティアの活動の様子は、インターネットのソーシャルメディア等を通じて日本にもたくさん伝えられた。この時、選挙ボランティアにあって政治参加する人々の宗教を問うなどありえない。これは米国の建国の歴史において、教派間の壁や対立が大きかったことが背景にある。つまり、教派を問うていたら一致できないのだ。そこで、ボランティアという時はその人の「意志」で参加していることを尊重し、教派の違いを問わず活動目的にコミットする形で一致することを前提にした。だからこそ「ボランティア」(volunteer)といわれる。

ボランティアの語源のラテン語は、ウォロ(volo)で「わたしは~したい」つまり「欲求する」を意味する。そこから「意志」を意味するウォルントゥス(voluntus)というラテン語が派生している。ウォルントゥス(voluntus)という時、それは「自由」であることも含んでいる。そのため、語源的な意味から言っても「自らの自由な意志」がボランティアとなる。
そして、これが西欧型民主主義における人権の基軸ともなっている。そこには長い歴史があり、ヨーロッパにおいて「意志」を持つことが「自由」の条件になっている。日本とは異なり、ヨーロッパでは自由市民と奴隷という対立構造を持った。そのような社会制度において、「自我を捨ててする社会奉仕」は自由人のものではない。
古代ギリシャの自由人にあっては、自由を守ることと権利を守ることは一つであった。自由は市民権でもあり政治参加をする権利でもある。権利が失われれば最悪は奴隷となる。ここにヨーロッパの根底にある権利意識がある。特に米国においては、
教派間の対立が逆に対立を問わず一致することを必要とした。そこに「意志」のみで一致するボランティア活動が生み出される土壌ができた。だから、ボランティアにおいて宗教を問うことなどありえないのである。
一方、日本では「自由」と「意志」は別ものに考えられる傾向がある。むしろ権力や束縛に対して「自由」を主張することが多い。その「自由」は国家や自分以外の他者をまず想定しそこからの自由を考える上で【対他的】といえるかもしれない。そのために【自発的】なvolo「欲求する」では我欲を満たす行為となり、本来の意味とは真逆に「自我を捨ててする社会奉仕」という勘違いが生まれやすい。

下手をすると、今回、世論が煽られ過ぎたことで日本人の「人権」理解が欧米理解から大きくそれてしまった可能性がある。市議会レベルでの「統一協会との関係を一切断つ」決議はそのことを物語っている。

< 宗教と政治の関係問題 >

宗教者が政治に関わること自体に対する否定的な論調には、一歩立ち止まる必要がある。「正義」や「愛」といった人間の真理に関わるテーマは、その背景にその人個人の宗教観が大きく影響していることが多い。社会を良くしたいと願う宗教者が政治と関わることは、決してオカシイ話ではなく、むしろ当然ありうる話といえる。
では、宗教という「団体」が政治と関わることはどうであるかの問題については、日本国民である限り、しっかりと憲法20条「信教の自由」に則って議論するのが良いと私は考えている。
よく問題にされる話で、創価学会という宗教が公明党を通して与党に影響力を持つことは注意が必要だと私も考える。一方で、第二ヴァチカン公会議の神学者ハンス・キュンクが「真理論」で語るように、各宗教の持つ「真理の境界線」が「宗教の境界線」ではないのである。真理が諸宗教それぞれに絶対的なものであるとしても、普遍的正義において他宗教の教えと重なっている部分も多くあるだろう。創価学会にしても然り。そうであれば、宗教の政治参加自体を否定するのではなく、「政教分離原則」にあって、単独の宗教が特別な利益あるいは不利益を受けているかどうかを問題とするのがいい。
世論に聞くのが政治家であれば、今後、政治家は各自がこれにどう対応するかが問われる。そして国民は選挙にあってその審判を下すことになる。この状況下では政治家は統一協会と距離を置く必要を感じているはずだ。しかし、それをもっても政治家と統一協会の関係は、政治家と票との距離感の関係に収める必要がある。そこから離れて、政府自体が一つの宗教を特別に否定するというのは、憲法上許されるものではない。
それまでは「日本会議」と自民党との関係で騒いでいた人たちが、今になってそれが「統一協会」になっている。しかし、どうあれ統一協会は自民党の支持団体の一つにすぎない。
統一協会が接近した政治家の中に、安倍派の閣僚級の政治家がいる。たまたまその政治家に近い人が私の知人であったので、彼に統一協会の危険を伝えると、「相手が統一協会だと名乗らない別の団体であれば、社交辞令程度のあいさつはする。怪しいからといって、『お前は統一協会だろ!』とはやらない」との返事であった。今から5年ほど前のことであるが、当時であれば政治家としてはこれが正しい態度であろう。

< 最後に私の主張 >

繰り返しになるが、問題となるべき統一協会問題が、日本の歴史認識問題だということがほとんど語られていない。触れられていても、まさにそれが根本問題だと気づかれていない。情報源の偏りを抱えたテレビメディアの影響は大きい。

統一協会の教えは韓国中心主義および反日的歴史観で彩られている。その証拠に、日本でばかり霊感商法や強制的な献金が行われている。このような教えを受ける日本人が、学校教育で自虐史観を刷り込まれているならば、まるで免疫力がまるでない状態で統一協会の教えに晒されることになる。日本の戦後教育の自虐史観が呼応してしまい、その被害が甚大なものとなってしまった。ここにメスをいれなければ、統一協会に取り込まれる若者たちは後を断たない。
それにも関わらず、統一協会での議論が明後日の方向で盛り上がっている。議論の舞台をちゃんと歴史認識問題に据えるべきだ。統一協会問題を政治利用するのは止め、根本にある問題こそが語られねばならない。