『キリシタン史からのメッセージ』
高槻・Ukon:第4回
久保田Ukon 典彦
阿武山福音自由教会 教会員
「髙山右近研究室・久保田」主宰
「“三教一致神” の思想」
為政者たちによるキリシタン迫害・弾圧は、どうしても避けることが出来ないことだったのでしょうか?
唯一神と偶像神の必然的対立
天地創造神と被造物神の必然的対立
一神教と多神教の必然的対立
絶対神と三教一致神の必然的対立
豊臣秀吉や徳川家康・江戸幕府による、キリスト教に対する苛酷な迫害、弾圧!
支配者・為政者側も、キリスト教側も、もう少し何とか、なかよく協調してやっていく道はなかったのでしょうか?
結論を言えば、双方共に、“ 中途半端な妥協による協調”はありえないことだったのです。
全国統一をめざし、それが実現していった豊臣秀吉や徳川家康にとって、“中央集権による全国支配・権力支配の基本をどこにおくのか”
━━ このことが、最大の課題でした。
中央集権のためには、伝統的宗教である寺社勢力を結束させ、日本は「神国」であり、仏教・神道は一つのものであり、秀吉自身は、天道に叶った者として、政権を天から特別に委託された者であると、位置付けていきます。神道・仏教・儒教も、本来一つのものであり、「天道」と称されるという考え方です。
1591年インド総督宛の豊臣秀吉の書簡では、
「この神、竺土(インド)に在りては、これを仏法となし、
震旦(中国)に在りては、これを以って儒道となし、
日域(日本)に在りては、これを神道という。
神道を知れば、すなわち仏法を知り、又儒道を知る。」
━━ と述べています。
“ 神仏儒” は一つのものであって、表裏一体のものであり、「三教一致の思想」と呼ばれます。
徳川家康も、「三教一致の思想」に立っていて、1614年の「大禁教令」では、
「日本は、神国・仏国にして、神を尊び仏を敬い仁義の道を専らにし、善悪の法を匡(ただ)す。」
━━ と述べています。
さあ、キリスト教はどうしますか?
天道の神を、インドでは仏教・中国では儒教・日本では神道であることに加えて、ヨーロッパではキリスト教として、表裏一体のものを信じているだけであったという [四教一致の思想]と呼ばれるものだ!
━━ ということであれば、
何の問題も、迫害・弾圧も起こらないわけなのですが・・・・・・・
これは、まさに“多神教”の考え方・信仰であるわけですから、唯一の天地創造神を信じている宣教師たちやキリシタンたちにとって、到底、受け入れることは出来ません。
キリスト教から見れば、日本の神々や数々の仏たちは、人間に過ぎず、デウスによって造られた被造物であって、それらを崇拝することは、【十戒】で警告されている偶像礼拝であり、主なる神さま以外のものを神として拝んでいることになるのです。
キリシタン達は、そのようなことを認めて従うことは出来ませんし、他方、為政者達にとっても、キリスト教が国策の根本部分を否定し・反対するわけですから、これを認めれば、政治支配の根幹が崩壊させられることになりますから、キリスト教を“邪宗門”として排斥し、徹底的に迫害・弾圧していくことになります。
そのような、トンデモない・危険きわまりない考えをもった者・キリシタンが、一人もいなくなるまで、徹底的に、反キリスト教の政策を進めていきました。最重要の国策として進めていきました。
現代の社会においては、どうなのでしょうか?
以上のことは、基本的人権として「信教の自由」が認められているとは言いながら、いつの時代になっても、変わることのない問題だと思われます。キリスト教が、本来の絶対的価値観を弱めていって、相対的価値観に埋もれていってしまいますと、多神教の仲間入りをしていってしまうことになります。
その結果として、日本の伝統的宗教や伝統文化と仲よくやっていけることになり、対立が起こることは無くなりますが、それでは、最早、唯一絶対の天地創造神を信じているはずのキリスト教とは言えないものになってしまいます。
真理に従って生きていこうとすれば、ある程度の対立・迫害は、必然的なものとして、覚悟していなければならないのかもしれません。
※【参考図書】
『信教の自由と政教分離』
(日本カトリック司教協議会 社会司教委員会・編)
「国是」と迫害 ━ 歴史上よりの再考察 溝部 脩
久保田Ukon 典彦
・阿武山福音自由教会 教会員
「髙山右近研究室・久保田」主宰
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「髙山右近研究」をライフワークにしています。
髙山右近やキリシタン達を通して、いっしょに考えていければと思います。