21世紀にもなって、どうして? −亀井俊博−

写真:大阪・梅田_カリヨン広場(東側より北方向)
(撮影:2022-0522_Piyo ePub Communications)

 

 

 

バイブル・ソムリエ:亀井俊博

「西宮北口聖書集会」牧師
「芦屋福音教会」名誉牧師

21世紀にもなって、どうして?

2022・5・25

 “21世紀もなって、どうしてこんな事が起こるのか?”と、ロシアによる非道なウクライナ侵攻の悲惨な映像を見ながら嘆く。某TV番組でパネラーの一人が、こう嘆いて“19世紀じゃあるまいし”と付け加えた時、別のパネラーが“人間って19世紀でも21世紀でも本質は変わりませんよ”と応じた。すると慨嘆者は“そんなことはない、人間は進歩するものですよ!”と色を成して反論していた。

 私は両面あるよなあ、と言うのが実感ですね。文明文化は進歩発展するかもしれないが、道徳面では進歩も発展もないのではないか、と言うのが偽らざる人間の実態ではないのかと思うのです。以下の論は現代世界を俯瞰した非人称的、さらには三人称的記述であり、二人称的あるいは一人称的当事者の悲惨さを捨象したものではありますが、こう言う論述も必要ですので、のべてみます。

2010年代の楽観論

“シンギュラリテイ”

 21世紀にもなって、と一言で言うが、実は詳しく見ると、2010年代は人間性謳歌の楽観論でした。それが僅か10年後の2020年代では様変わりして暗転したのです。

 文春5月号に、批評家の東浩紀氏が「ハラリと落合陽一、シンギュラリテイ批判」と言うエッセイを寄せている。2010年代の人間力礼賛の楽観主義から、2020年代のパンデミックとウクライナ戦争による、悲惨な現状への暗転を思想史的に読み解いています。

 それは19世紀から20世紀前半を席巻した、共産主義と言う哲学的・政治的な文系の「大きな物語」の時代が終わり、ポスト・モダンの相対主義的「小さな物語」の時代に転換した。しかし2010年代に今度は理系の「大きな物語」がコンピュータ・サイセンスを背景に出現した。19世紀、資本主義の破滅と革命による共産主義社会到来と言うユートピアは破綻したが、コンピュータを手にした人類は、21世紀デジタル・データ・サイエンスの力で、新たなユートピアを描く時代になったと言うのです。しかしその夢想を打ち砕いたのが、今回のコロナ禍とウクライナ戦争だと、東氏は説く。

 まず「シンギュラリテイ(特異点)論」です。2005年に未来学者レイ・カーツワイルが唱えた説で、2045年にAI(人工知能)の発展が極地(シンギュラリテイ、特異点)に達して、遂に人間の知能を追い越すと言う。この説を基に、思想家で企業家さらに政治にも影響力ある落合陽一は2018年に「デジタル・ネイチャー」を著し、まずAIが考え、経済的な資源と需給の最適解配分を割り出し好不況の不安定さを克服し、次にAIが各個人に適した人間の仕事を割り振り、労働現場はロボットがやってくれる。人間は労働の苦役から初めて解放されてユートピアが到来する。さらに人間は新しい階層に分かれ、“AI-VC階層”、則ちAIを駆使する先進資本家=エンジニアによる、社会の基礎構造・アルゴリズムを考えられる一握りの超エリート層と。“AI-BI階層”、AIとロボットが生み出す富をベーシック・インカムとして分配を受けて、基礎的生活を保障された大衆に分かれると言う近未来像です。

 さあ、果たしてAI,ロボットが支配する最適社会がユートピア(理想郷)なのか、はたまたデイストピア(暗黒社会)なのか、疑問ではあります。そして2022年現在は、米国のGAFAを始めとしたデジタル・プラットホーム巨大企業のソフト・パワーによる世界支配の危険性、共産党専制支配中国のAIを駆使した超監視社会の息苦しさ、いやそこに住む国民は欲望を充足させられ、自由を明け渡した人間性喪失の自覚さえ失った姿。また同じく専制主義ロシア政府の情報管理下における市民社会の抑圧現象の恐ろしさは、慄然とさせられます。しかも彼らは強大なハード・パワー・軍事力を背景に世界制覇を目指しており、「シンギュラリテイ」とはAIによる専制主義(デジタル全体主義)の世界支配転換点なのかと疑念が増すのみです。

“ホモ・デウス”

 次に、2019年、歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリの「ホモ・デウス、テクノロジーとサピエンスの未来」論です。人間が科学技術を手に入れて進化し、遂には、人間の生物学的限界を超えて、ホモ・サピエンス(ホモ(ヒト)属サピエンス(知恵)科、現生人類)からホモ・デウス(ホモ(ヒト)属デウス(神)科、人間神化)に至ると言うものです。人間は、21世紀には、飢饉・疫病・戦争の三大苦と言う人類の限界を克服し、遂には「不死」と「幸福」と言う神(デウス)の領域にアップ・デートするであろう、と言う壮大な宇宙的規模の未来像です。

2020年代の現状

 しかしどうですか、21世紀も20年代になってコロナ・ウイルスと言うパンデミック(地球規模の疫病)が発生、600万人の死者と、後遺症に苦しむ患者の激増、さらにはロック・ダウン等の感染対策で経済社会活動が低迷し、疫病で死ぬか経済的窮乏で死ぬかの究極的選択にまで迫られた。この医療・科学技術の発展した21世紀にもなって、疫病一つに3年も苦しめられているのが、人類の実態です。

 また現代は「人新世」時代と呼ばれ、人間の地球環境への負荷が極まり、地球温暖化による気候不順で農作物が不作、さらには後述の戦争で、作物栽培や輸出入が滞り、食糧の争奪争い、石油・天然ガス資源が経済戦争の道具とされ、食糧・エネルギー危機に苦しむ地域が発生。飢饉は21世紀の大問題です。

 またロシアの様な「国連」の常任理事国と言う責任ある先進国家が、率先して守るべき国連憲章の禁じる侵略戦争を起こし、さらには禁じ手の「核使用」も示唆恫喝する事態。核を使用しないことが前提の“核抑止論”は脆くも崩れ、超大国米国もこの脅しには手も足も出ない。得たりと中国や北朝鮮まで同じ核使用示唆を公言、台湾始め東アジア諸国を恫喝し、危機感を持った日本も核武装を論じ、武力行使のため憲法改正まで前のめりです。今やウクライナ侵攻に挫折したロシアは追い詰められ核使用の第三次世界大戦までほのめかしている。現にロシアでは正教の影響で黙示録的人類終末の時が論じられ、何と「終末の日の飛行機」と言う核ミサイル発射ボタンを乗せた、ロシア大統領専用機「イリューシン80機」、対する米国の「E―4Bナイト・ウオッチ機」(国家空中作戦センター)がスタンバイしているとの事。まさに21世紀現在は世界終末の危機に立たされているのです。

 米国の原子力科学者会報発表の「終末時計、Doomsday clock」は、1947年時点では人類滅亡まで7分であったが、今年は残り100秒と言う「終末時計」設置75年の歴史で最も短い危機状況を警告している。

日本の選択

 かつて「危機管理」と言う概念を説いた、警察官僚出身で戦後の日本国内外における危機管理の最前線に当たった佐々淳行氏が、当時の首相から直面する国際的危機の選択を諮問された時の事。佐々氏は、歴史を見ると正義がいずれにあるかは別として、アングロ・サクソンが危機の選択で採った方が、勝った。戦前の日独伊全体主義VSアングロ・サクソン自由民主主義しかり、戦後のソ連共産主義VSアングロSまたしかり、ジャパン・アズNO.1の日本VSアングロSもまたしかり、みなアングロSが勝利している。日本も日露戦争の勝利は「日英同盟」があったから、アングロSを敵に回した日独伊同盟時代は敗北。戦後も日英同盟の現代版、「日米安保」のお陰で軽武装で済み、経済に注力でき奇跡的復興から繁栄、だが経済力を鼻に米国に立てつき敢無く敗北。その後の「失われた30年」以降現在も続く長期停滞の根本的理由はそこにあると私も思う。

 佐々氏は、ですからアングロ・サクソン側に就くことを、国家の危機管理の要諦としてお勧めします、と首相に具申したとの事。現在の保守本流の日本政府は、ロシアのウクライナ侵攻、予測される中国の台湾侵攻、尖閣侵攻の危機到来を予測して、アングロS側に立つ事を旗色鮮明に選択した。あのグズと言われた岸田首相には珍しい決断の速さ。欧米や豪州・カナダのアングロS陣営は当然であるが、世界では多くの国家が選択を留保している、アジアでも米中の狭間で選択を躊躇する国家の多い中、日本の明確な選択は飛びぬけている。今さら後に引けない、選択が誤りであれば、後日中ロから手ひどい仕打ちが待っていよう。

 しかし現状では、この究極的選択を私は支持します。ロシア、中国・北朝鮮の全体主義専制体制VSアングロS・EU・日本の自由民主主義体制は、まさに歴史上究極的選択に立たされているからです。日本国憲法の保障する「自由権」こそ、アングロS起源の守るべき究極的価値なのですから。また中ロはアングロS弱体化したり、と侮ってはならない。自由な意見を保障される民主的国民は民意収束に時間がかかるが、一端結束すれば、政府の強制力に操られる国民とは比較にならない自発的圧倒的力を発揮するからです。

 ただし、アングロS側勝利のその先は、やはり独り勝ちは、敗者に恨みが残って良くない。林外相も信条とする保守本流のクリスチャン宰相大平正芳氏の説いた「楕円思考」で、米中二大パワーを焦点とし、世界の課題に仕える楕円構造の世界をビジョンと見据えておくべきであろう。

どうして21世紀もなって

 どうして21世紀にもなって、何たることか!飢饉・疫病・戦争の原因を作り出すプーチンのみか世界のリーダー達やその支持者たちの多さは正気の沙汰ではない。

 2010年代に、人類はAIによってユートピアを生み出すシンギュラリテイを迎えたと説いた、未来学者カーツワル。さらに人類の英知は、飢饉・疫病・戦争を克服して、人類はホモ・デウスになる。ラテン語でデウスとは神ですよ。人間が神になると大言壮語した歴史家ユヴァル・ノア・ハラリ等は、2020年代にどう責任を取るのか。その言説に酔った心酔者はどう言い訳するのか。

生態学的原罪論

 ここで私はニホンザル、ヒヒ研究の第一人者で霊長類・生物生態学者、河合雅雄の「生態学的原罪論」を思い出さざるを得ないのです。河合は著書「森林がサルを生んだ、原罪の自然誌」で、自然は生態学的バランス維持機能(ホメオスタシス、生体恒常性)を持っている。それは個体数調整機能(ポピュレーション)であり、自然は生態系のバランスを崩すほどの異常増殖した生物「種」を病気や飢餓で減少させると言う。さて生物進化の頂点に至り自分の捕食者を失ったホモ・サピエンス(現生人類)は地球上に蔓延し、今世紀末で100億の人口爆発に迫り、自然環境を破壊して、他の生物「種」を撲滅し、食糧を増産、資源エネルギーを大量消費して、地球の負荷は限界に来ている。そこで自然は人類に対して、飢饉・疫病・戦争と言う「生態学的原罪」を用意してポピュレーション機能としている。生態学的原罪は文明文化の進展とは係りのない、人間を含めた自然にビルト・インされた不変の基本構造なのだ。この様に“サル学は人間学である”と説く、生態学者河合雅雄京大名誉教授は深い危惧を述べています。

 まさに20世紀は「人新世」時代と言う、人間が地球環境支配の主役、それも悪役となって環境破壊の張本人となった世紀です。そこで21世紀、自然(ピュシス、ガイア、生命体としての自然)はポピュレーション機能を発動し、自然の生態系バランス維持のため、飢饉・疫病・戦争を人類にもたらせて個体数削減、あるいは自然環境破壊活動の減速化、つまり経済活動の停滞、減速、ウクライナ戦争、食糧エネルギー争奪戦、を図っている。だから“21世紀もなって、どうしてこんなことが起こるのか?”ではなく“21世紀だからこそ、こんなことが起こったのだ!と言うべきなのだ。

バイブルの人間診断

 私は聖書を読んでいて思う。旧約でもエレミヤ書に「主はこう仰せられる、疫病に定められた者は疫病に、つるぎに定められた者はつるぎに、ききんに定められた者はききんに」エレミヤ15:2 とある。新約でもイエス様の終末の徴預言に「国は国に敵対して立ちあがるであろう。またあちこちに地震があり、また飢饉が起こるであろう」マルコ13:7とある。人類は「知は力なり」(F・ベーコン)と、理性を誇り科学技術を手に入れ、遂には自分の知能を超えるAIまで発明して、「不死」と「幸福」を手に入れて、神の領域(ホモ・デウス)に達すると己惚れた。

 だがその結果は、自分の所属する地球そのものを破壊する愚か者であった。そして46億年の地球史(ピュシス、ガイア)の持つ知恵は、たかだか700万年の人類史しか経験していない小賢しいホモ・デウスをしたたかにその足元を掬って、飢饉・疫病・戦争を21世紀にもたらせている。

 創造者なる神の英知は、被造物である地球に「創造の秩序」として、ホメオスタシス(生体恒常性)をビルト・インしておられるのだ。人間がこの秩序に背くとき、いつの時代でも生態学的原罪として警告が発せられる。“バベルの塔崩壊”、“ノアの洪水と箱舟”の聖書の警告を思い起こすべき時。今こそ人類は創造者の前に、我が物顔で神にさえなろうと傲慢になった罪を悔い改め、膝を屈して、その罪を悔い、神の御子の十字架の贖いにより罪の赦しを乞い、さらに隣人を愛し、自然環境を愛するスチュワードシップに生きる人間に生まれ変れるよう、求める時なのです。真のSDGs運動はキリスト者にこそ可能だと思うのです。

「主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕やさせ、これを守らせられた」(創世記2:15)

21世紀の人称論的究極の選択

 以上は非人称的、三人称的21世紀の世界的危機への巨視的視野の選択論です。しかしコロナに感染したり、戦争の被害者になったり、飢餓に苦しむ、と言う事態の二人称的、一人称的に悲劇の当事者になることは、つまり“どうしてこの私が、こんな目に遭わないといけないのか?”との問いは、まさに不条理であり、死に直面する個人の究極的危機に他なりません。しかも以上の論述で、人生の不条理や死の危機は、21世紀では解決済みでは無い事は、自明の理です。人は、いつでもどこでもこの危機に備えておかねばならないのです。その備えこそが人間の究極的選択なのですから。神の愛につくか、滅亡につくか。

「あなたはさきに心のうちに言った、「私は天にのぼり、わたしの王座を高く神の星の上に置き、北の果てなる集会の山に座し、雲のいただきにのぼり、いと高き者のようになろう」、しかしあなたは陰府に落とされ、穴の奥底に入れられる」
イザヤ書14:13~15

「神はそのひとり子を賜ったこのほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」
ヨハネ3:16