『キリシタン史からのメッセージ』
高槻・Ucon:第32回
━ 久保田 Ucon 典彦 ━
阿武山福音自由教会 教会員
「髙山右近研究室・久保田」主宰
『キリシタン史からのメッセージ』
高槻・Ucon:第32回
━ 久保田 Ucon 典彦 ━
阿武山福音自由教会 教会員
「髙山右近研究室・久保田」主宰
━ 久保田 Ucon 典彦 ━
阿武山福音自由教会 教会員
「髙山右近研究室・久保田」主宰
● 髙山右近たち、キリシタン時代の 茶の湯において、大切に考えられていた 3つの事柄は、
━━ ということでした。
● 「 一たび 茶によって結ばれた 人間相互の結合は、いかなることがあっても、鎖断することがない。」 ( 西村 貞 「 キリシタンと 茶道 」 )
“ 一たび キリスト によって結ばれた 人間相互の結合は、いかなることがあっても、鎖断することがない。”
━━ と 言えそうですネ。
━ 久保田 Ucon 典彦 ━
阿武山福音自由教会 教会員
「髙山右近研究室・久保田」主宰
● 髙山右近たち、キリシタン時代の 茶の湯において、大切に考えられていた 3つの事柄は、
「 市中の山居(しちゅうのさんきょ) 」 「 和敬静 ( 清 ) 寂(わけいせいじゃく) 」 「 一座建立(いちざこんりゅう) 」
━━ ということでした。
これらのことを 極めながら、
“ 世間の すべてのものから離れて、真の 心の自由に至り、世の移り変わりを越えて、心の安定と平和に至る ”
ことを 目指していったのでした。
━ 久保田 Ucon 典彦 ━
阿武山福音自由教会 教会員
「髙山右近研究室・久保田」主宰
● 私たちの 主イエス・キリストにも、髙山右近にも、当時の、残された画像があるわけではありません。
イエス・キリストの場合は、「 聖書 」 があります。また 歴史史料を補助として、“ 私のキリスト像 ” を心に描いていくことになります。
“ これが正解 ” というものが ないわけですから、百人百様 の キリスト像になります。
絵画 ・ 彫刻 ・ 小説 ・ 映画 ・ ドラマ ・ 音楽 ・・・・・ いろいろな形で表現された キリスト像を見て、共鳴し・感動してきました。
それぞれが、真摯に、精一杯の キリスト像を描き ・ 演じ ・ 表現しています。
それぞれに対して、私の琴線に触れるものには、私も共鳴していくことになります。
━ 久保田 Ucon 典彦 ━
阿武山福音自由教会 教会員
「髙山右近研究室・久保田」主宰
日本に来るまでの 2年間の 準備の間、日本に関する 情報を集め、日本語についても、少しは 習得しようとしたはずです。
写真:「 茶室で祈る髙山右近 」 ( 柳柊二・画 )
『キリシタン史からのメッセージ』
高槻・Ucon:第27回
━ 久保田 Ucon 典彦 ━
阿武山福音自由教会 教会員
「髙山右近研究室・久保田」主宰
● 日本に初めて 正式にキリスト教を伝えた 宣教師フランシスコ ・ ザビエルを始め、巡察師ヴァリニャーノや オルガンチーノ神父など、イエズス会の宣教師たちは、
日本人に キリスト教を伝えていくためには、
日本 ・ 日本人を よく理解し、それらに適応していきながら、願いである “ 救いの福音 ” を伝えていくことが 大切なことであると考えていました。 ( 全員が 一致していたわけではありませんが )
“ 日本人とお茶 ” の関係 ・ 日本文化としての “ 茶の湯 ” ( わび茶 ) が、日本では 大切に考えられていることを 認識していきました。
━ 久保田 Ucon 典彦 ━
阿武山福音自由教会 教会員
「髙山右近研究室・久保田」主宰
━ 久保田 Ucon 典彦 ━
日本で最初に祝われた クリスマス は、いつのことで、どのようなものだったのでしょうか。
いつのことか、と言いますと、今から 467年前の、1552年12月25日 のことです。
時代で言いますと、室町時代になります。
宣教師の フランシスコ ・ ザビエルが、日本に キリスト教を伝えたのが、1549年のことですから、その3年後に、日本最初の クリスマス ミサ ・ クリスマス礼拝がささげられました。そして、愛餐会がもたれ、祝われています。
場所は、山口県山口市の 司祭館 においてです。
※ 写真:「祈る髙山右近」 (水戸成幸・画)
『キリシタン史からのメッセージ』
高槻・Ucon:第25回
━ 久保田 Ucon 典彦 ━
阿武山福音自由教会 教会員
「髙山右近研究室・久保田」主宰
● 髙山右近も お父さんの飛騨守も、 「 祈りの人 」 でしたよ!
高槻城内にあった教会、今の 野見神社の所にあった教会では、毎朝、早天のミサ ・ 早天祈り会が持たれていました。
毎朝、キリシタン達が集まってきて、祈りをささげていたわけですが、教会に 一番にやって来たのは、誰だったと思いますか?
高槻城主である髙山右近か、お父さんの 飛騨守か、この二人の内の どちらかだったのです。
*写真:高槻城跡公園の「髙山右近像」
『キリシタン史からのメッセージ』
高槻・Ucon:第24回
久保田 Ucon 典彦
阿武山福音自由教会 教会員
「髙山右近研究室・久保田」主宰
[ ヴァリニャーノ・著] 第20章
※写真 後方の山に、髙山ダリオ飛騨守が城主だった沢城がありました
(奈良県宇陀市榛原区沢)
久保田 Ucon 典彦
阿武山福音自由教会 教会員
「髙山右近研究室・久保田」主宰
● 混迷の戦国の世にあって、誰につくのか!?
━━ということは、一家・一族の存続・繁栄にかかわる一大事ですので、誰もが、最大の関心を払い、情勢を見極め、行動しておりました。
その結果の選択として、
北摂の山里・高山の一地頭にすぎなかった髙山飛騨守友照は、松永久秀の家臣となり、つづいて、和田惟政の家臣となって、そのもとで重用され、活躍していったのでした。