イースターメッセージ~イエスとの出会い~ -中川晴久-

 

 

 

中川晴久
東京キリスト教神学研究所幹事
主の羊クリスチャン教会牧師
SALTY 論説委員

イースターメッセージ「イエスとの出会い」
Ⅰコリント15:1-9

イースターとは、イエス・キリストが復活されたことを祝う日です。
少々難しく言えば「イエス・キリストは十字架にあって死を打ち破りよみがえった。主イエスは死を打ち破り、人類を罪の支配から解放して下さった。」ということでしょう。
このイエス・キリストの死からのよみがえりを、<復活>といいます。
ただ、そんな堅苦しい言い回しではなく、もっとそこにはキリスト教の本質的なあり方と意味があります。

さて、「復活」は信仰者でない人たちにとっては「最大の難所」ともいわれています。教会に初めて来た人が「復活」について「それは後の人が勝手にでっち上げた物語だ!」と言うのを、私も聞いたことがあります。
この死からの復活という「最大の難所」を通ることができれば、信仰を持っていないよという人も、信仰を持つことができるでしょう。

<「復活」という最大の難所>

では、私たちのような信仰者は、この「最大の難所」をどうして通り抜けたのでしょうか。
おそらく、信仰者たちはこの難所を「最大の難所」とも思わずスッと通り抜けた人が多いのではないかと思います。

なぜか?
それは一人ひとりが「復活」のイエスとすでに出会っでいるからです。

イエスが触れてくださった、あの時、あの瞬間。
おそらくキリスト者たちはみな何かしら持っている体験があるのだと思います。ある時は静寂の中で、また時あるときは祈りの中で、時ある時は感動の涙を流しつつ、イエスに触れられ、包まれ、主が傍らにおられることをリアルに感じた経験。
信仰者の方々には、このイエスとの最初の出会いを、イースターを迎えた今思い出してほしいのです。

<私とイエスとの出会い>

私が信仰をもって間もない時、大きな絶望を抱えて夜道を歩いているときでした。ふと天を仰いで「主よ、委ねます。」と祈ると、突然温かいお湯に包まれたような状態になって、そのお湯の中を泳ぐようにして歩く感じになりました。30秒ほどのことだったと思います。するとそれまで苦しくて絶望的な心の状況が一転して、希望しかなくなっていたのです。その後すぐに聖書を開き読んでみると、どういう読み方をしたのか、さっき私を包んだ方のことがありありと書かれているのがわかりました。「私を包んだ方だ!」「さっきと同じことが書かれている!」と分かったのです。霊的に読んで分かったとしか言いようのない不思議な体験でした。これは私が信仰を確固として持つに至る原点となりました。

出会い方は違うけれども、信仰者はそれぞれに、何かしらで神さまと出会っているはずです。その現実が、私たちキリスト者に言わせるわけです。「イエスは十字架の上で「死んで」終わったのではない。「神は生きておられる!」(ルカ24:23)」と。

<弟子たちとイエスの出会い>
Ⅰコリント15:1-9(新改訳聖書)
15:1兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。 2また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。 3私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、 4また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、 5また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。 6その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。 7その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。 8そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。 9私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。

 

今日の聖書箇所を見てみましょう。
15章1節で「兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。」とパウロは言った後に、その福音として3ー4節にてキリストの十字架の「死」と「復活」を挙げました。その復活について、パウロはそれに続けて繰り返し復活のイエスが「現れた」と言っています。
5節「ケパに現れ」
6節「500人以上の兄弟たちに現れ」
7節「ヤコブに現れ」「使徒たち全部に現れました。」
8節「最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現れてくださいました。」

「現れた」というのは、復活のキリストとの「出会い」です。
使徒たちが宣べ伝えたのは、キリストの十字架の「死」と「復活」ですが、この復活は弟子たち個々人の目の前の現実、復活の「イエスとの出会い」だったわけです。
そして、復活のイエスと出会ったことを語る言葉は、そのまま彼らにおける神についての「証し」となりました。

<出会った者たち>
ヨハネの福音書20章19-21節(新改訳聖書)
20:19その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」 20こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。 21イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」

イエスさまが十字架にかけられてすぐに、弟子たちは自分たちにも迫害の手が及ぶのではないかと、堅く扉を閉ざして部屋の中でおびえていました。ところが、堅く閉ざした扉をすり抜け、復活のイエスさまが「平安があるように!」と言って入ってこられました。
すると、それまで迫害におびえていた弟子たちは、大喜びで元気を取り戻します。外の危険な状況が全く変わっていないにも関わらず、弟子たちはこの後大胆に外に出て行き福音を語り始めることになります。
自分が出会ったイエス・キリストを「証し」したのです。

<パウロの力>
Ⅰコリント15章8-9節にて、次のようにパウロは言っています。
「そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。」(新改訳聖書)

パウロのキリストとの出会いは、キリスト教会を迫害するためにダマスコの途上でのことでした。そこでパウロは光の中でイエスと出会い、信仰者となります。その後、パウロは力強い伝道者となって福音を伝える使徒となりました。
パウロの伝道旅行の様子は新約聖書の『使徒行伝』に記されている通りです。

どうしてパウロが力強く福音を伝え旅をすることができたのか?
私はローマ人への手紙1章10-12節にそのヒントを見ました。

1:10いつも祈りのたびごとに、神のみこころによって、何とかして、今度はついに道が開かれて、あなたがたのところに行けるようにと願っています。 11私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでもあなたがたに分けて、あなたがたを強くしたいからです。 12というよりも、あなたがたの間にいて、あなたがたと私との互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。

パウロは何とかしてローマの仲間のところへ行きたいと願っていその理由を語っています。パウロは、自分たちのところで現わされた神の御業を伝え、兄弟姉妹を勇気づけたかった(11節)。「というよりも」(12節)それ以上に、ローマの仲間たちが出会ったイエスの出来事を聞いて一緒に喜び、神を讃えたかったのです。つまり、ローマの兄弟姉妹たちと復活のイエスの「証し」を共に分かち合いたかったのです。

<私たちが語るべき福音>

イースターで問われているのは、私たちの出会ったイエスさまがどんな方か?ということでもあります。
教会ではイエスとは何か?を知識として教えられる機会が多くあります。もちろん、それはそれとして必要なのですが、しかしそれ以上に大切なことがあります。

それは「あなたの出会ったイエスさまは、どんな方か?」ということです。
私もそれを聞きたいし、聞いて励ましを受けたいです。
みなさんはどんなイエスさまと出会っているのか?

イエスさまがそんな律法的なことを言う方だろうか。イエスさまがそんな了見の狭い方だろうか。イエスさまがそんな小難しい方だろうか。
私たちが「イエスとの出会い」を語るとき、「私の語るべき福音」を脇によけてテキスト通りにしか語れないならば、それはキリスト教という名の単なる宗教になってしまいます。
キリスト教とは〈イエス・キリストがどのような方か〉その一点にかかっています。それゆえに宗教としての構成要件を満たしていない。キリスト教が宗教ではないといわれる所以です。だから、問うのです。「あなたが出会ったイエスさまは、どんな方か?」と。
同じイエスであっても、私たちはそれぞれに出会い方も語られ方も違ってきます。それでも同じイエスであれば、同じことを語ってくださっています。だから「あなたの証し」は「私の証し」でもある。ともにこの方の優しさと寛容、愛の深さに喜ぶことができます。

それぞれにイエスと出会ったのであれば、私たちには語るべき「証し」があるはずなのです。私はこれを自分にしか語れない「私の語るべき福音」という言い方をしています。その人でしか語れない福音をそれぞれが持っています。しかし、それは同じイエスが語っているゆえに、それはすべての人々にも伝えられるべき大切な福音です。
「私の語るべき福音」を語ることは、信仰者にとって恵であり、また大事な使命といえるでしょう。
イエスさまと出会った弟子たちが思いっきり語ったように、私たちも大胆に「私の語るべき福音」を語っていきましょう