旧統一教会事件から学ぶ −亀井俊博−

 

 

 

バイブル・ソムリエ:亀井俊博

「芦屋福音教会」名誉牧師
「聖書を読む集い」牧師

“旧統一教会事件から学ぶ”

2022年12月1日

一年を振り返る時期

 キリスト教会では待降節を迎え、2022年も終わりに近づきました。一年を振り返る時期です。各自個人的な忘れがたい出来事があった事でしょうが、社会的には多難な年でした。世界的にはコロナ禍が続き、ゼロ・コロナからウイズ・コロナへと、頑なにゼロ・コロナ政策にこだわる中国を除いて、多くの国々で舵を切り替えました。またロシアによるウクライナ侵略に、欧米・日本等グローバル・ノース(主に北半球の先進諸国で帝国主義時代の旧宗主国が多い)先進諸国は憤りロシア制裁・ウクライナ支援を開始。中国・インド始めグローバル・サウス(主に南半球の発展途上国で、旧植民地が多い)の国々は結構な数が中立を決め込み、かつてのグローバル・ノースの植民地支配へのトラウマと反発を思い知らされました。

旧統一教会事件から学ぶ

 足元の日本社会では、わたくしの独断と偏見では、何と言っても7月8日に起こった、安倍晋三元首相の選挙応援演説中の銃殺事件と、その後の思わぬ展開です。確かに元首相暗殺、それも民主主義の根幹、民意を問う選挙演説中の暴挙に、「すは、政治テロか」と身構えたものですが、意外な事に容疑者の母親が旧統一教会(正式名称、「世界基督教統一神霊協会」1954年に韓国で文鮮明教祖により創立。現在の「世界平和統一家庭連合」、以下「旧統一教会」と略します。)信徒で多額の献金をして家庭を破壊した事への怨みに起因するものでありました。「国葬儀」の是非はべつにして、悲劇的な最期であった安倍元首相への哀悼は当然であり、また言論には言論で戦うべきであり、殺人と言う暴挙で異論を封じる事は断じて許してはならないものです。しかし、その後次々と明るみの出ている政治家たちの旧統一教会との関係は、この国の暗部、アキレス腱をさらけ出していると思うのです。事件後の想定外の展開は、まさに聖書の言う「隠されているもので知られずにすむものはない」(マタイ10:26)と言うほかないものです。

 そこで、2つの観点から問題のありかと、処方箋を提示したいと思います。(1)国家安全保障の観点、(2)被害者補償と今後の予防策の根本、です。

(1)国家安全保障

(a)国家安全保障の見直し

 まず(1)の国家安全保障の観点です。最近ウクライナ侵略戦から、欧米・日本が金融経済制裁をロシアに加え、対抗してロシアは石油・ガス輸出を禁止、さらに穀物輸出も禁じ、ロシアのエネルギー・食料生産に依存する欧米・日本はもとより世界中の国家がロシアの兵糧攻めに苦慮しています。さらにこの虚を突くようにして北朝鮮の度重なるミサイル発射、さらには核実験の予測、北朝鮮の究極的な敵アメリカ本土攻撃を狙う核弾頭搭載ICBMの完成へのカウン・ダウン。また何より中国の台湾侵攻危機と日本への波及のおそれ。こう言う緊迫した国際情勢を受けて、日本の国家の安全保障が見直されています。

(b)エネルギー・食料の安全保障

 安保見直しの一つにはエネルギー・食料の安全保障、即ち特定資源国への依存の危険性を避け、複数国への資源依存策をとり危険分散を図る。さらに我が国にない石油・ガスに依存しない、太陽光発電、風力発電、地熱発電等の自然エネルギー開発に拍車をかける。11月6日からエジプトで開催されたコップ27(国連気候変動枠組条約への締約国会議)で、参加200カ国間で議論された地球温暖化対策として求められた要求に日本政府は一時的に従わない方針である。すなわち石油・ガス供給不足を受けて、縮小すべきCO2排出削減のための「石炭火力発電」、さらに発電により生み出される核物質処理の困難さから設置制限を求められていた「原発」再稼働を緊急避難的に再開。

 また日本は食料を他国からの輸入に頼り、戦争による海上封鎖が起これば国民はたちまち飢餓に直面する危惧、これに対して食料自給率を向上させる、等が国家の政治・経済的緊急イシューとして対応が迫られています。エネルギー・食料安保がまさに国家の焦眉の急になっています。

(c)軍事的安全保障

 二つには、北朝鮮、中国の軍事的脅威に対抗する軍事的国家安全保障の強化です。これらに対抗するための軍事力保持は憲法上の制約があり、また日本単独では到底困難なので、民主主義、基本的人権尊重、法の支配等の価値観を共有する日米同盟の強化による、駐留米軍による軍事的安全保障強化を図る。さらには自前の防衛力予算を現在のGDP1%からEU並に2%まで引き上げる。加えてミサイル攻撃を受けてからでは遅すぎるので、敵基地を先制攻撃する事まで検討し、従来の専守防衛の基本方針を大きく変更し、議論は必至です。

 また非軍事的外交による平和構築を図り安倍元首相の提唱した“自由で開かれたインド太平洋構想”への賛同を関係諸国に呼び掛ける。そして21世紀のグローバル時代に出現したアナクロな好戦的軍事国家への、平和的自由貿易推進による相互成長を図る対抗勢力の形成、があります。外交的安全保障の形成です。

一、二、共に重要です。

(d)政治家の安全保障

 しかし、わたくしには三つ目の安保策として奇異な表現ではありますが、「政治家の安全保障」を考えざるを得ません。というのは、今回の旧統一教会事件で明るみになったことから、旧統一教会は日本の政治家へのメッセージとして「勝共」、共産主義に勝つ運動である、と主張。共産主義嫌いの保守政治家の反共マインドと共鳴。選挙の際、旧統一教会は選挙支援を続けた。東西冷戦が終わり、「勝共」の看板を降ろした旧統一教会の教祖文鮮明は、出身地の北朝鮮の金日正主席に会い兄弟の契りを結んだと言う。教祖は南北朝鮮を統一し、その頂点に旧統一教会を立たせるのが夢であった。「統一」教会の意味は、ローマ・カソリックの様な世界の宗教統一と言う意味から南北朝鮮統一の意味に変質していた。「勝共」は意味をなさなくなった。しかし日本の反共政治家向けには「勝共」の看板を降ろさなかった。そこで旧統一教会は法人の名称変更を画し「世界平和統一家庭連合」として「平和」「家庭」を表看板にすり替え、政治家も異論なく、反日の実態を隠したステルス偽装団体と変身したのです。

 彼らの二枚舌には裏があったからです。それは活動資金源として日本を利用するためです。そもそも旧統一教会は「解怨」の教義によって、アダム国家韓国をエバ国家日本はかつて30年間も支配収奪した。その韓国の被害者としての怨みを晴らすため、贖罪として日本の信徒は多額の献金をささげるべきであると、説いた。この教義を真に受けた日本人信徒は、自責と贖罪意識から莫大な献金を旧統一教会に献げ、それが韓国の本部に送られ活動資金源となった。結果多くの家庭が経済的破綻、家庭崩壊を来たらせ、安倍元首相殺害の容疑者家族もその痛ましいケースである。

(e)個人的経験

 ここでわたくしの牧師としての小さな経験をお話ししたいと思います。統一教会被害者救済活動をなさる友人牧師から頼まれ、ある壮年夫婦を紹介されました。夫人が統一教会員で莫大な献金を続け、家計も自営業も破綻すると、音を挙げた夫が旧統一教会脱会者支援と言う救済活動をしている友人牧師に助けを求め、友人は被害者夫婦の近くの教会牧師であるわたくしを紹介されたのです。実態を知るわたくしには、今回の事件を他人ごととは思えないのです。夫人は旧統一教会に夫を熱心に勧誘したのですが、夫は巌として断り、わたくしが牧師を勤める教会の礼拝なら出席すると宣言、夫人も同じキリスト教ならとしぶしぶ同意、礼拝に夫婦そろって出席され、数年後旧統一教会の教えの過ちに気づき、福音による救いに目覚められ、旧統一教会からの呪縛から逃れたのです。

 また別件ですが、わたくしの牧する教会の女性伝道師の姉が、学生時代旧統一教会の「原理運動」に入信、心配した伝道師が神様に涙の祈りを捧げ、熱心に姉に説き遂に奪還。その後姉は教会生活を忠実になさる中で、良き同信の伴侶に恵まれ、二十数年後その御子息が名門大学を出られた後、神の召命を受け神学校に学び牧師になっておられる。ご両親の感謝の証を伺い、主のなされる御業の素晴らしさを崇めました。わたくしは旧統一教会元信徒へのマインド・コントロールを解く事に苦慮しましたが、神様のみ言葉「聖書」に基づく愛と恵みに優る策はないと信じますね。

(f)統一教会事件をうやむやにしてはならない

 話しを本筋に戻します。多くの政治家たちが旧統一教会から実に大きな支援を受け続けた結果、日に影に旧統一教会に便宜を図りその恐ろしい実態に権力のお墨付きを与え続けていたのです。持ちつ持たれつの関係であったのです。しかも背後に恐ろしいほど多くの信徒家庭が傷つき、破綻し、そこから収奪された莫大な献金が韓国の統一教会に貢がれ、さらに北朝鮮に流れていた、政治家はこの事実を指摘されながら、全く知らなかった、騙されたと言う。本当は知っていたんでしょう。選挙のメリットがあるので、不都合な真実には目をつぶっていただけでしょう。関連政治家の罪は深い。しかもその自覚がない。ここにこの問題の根の深さがある。やっと重い腰を上げて旧統一教会に宗教法人法に基づく「質問権」を行使し、裁判所に法人の解散命令を出してもらう。トカゲの尻尾切りです。裏切られた旧統一教会のリベンジによる関係政治家の実態暴露の脅しに戦々恐々と言われます。また旧統一教会は法人格を失っても、宗教活動は憲法により保障されています。これまで通りの実態に変わりなく活動せよとの本部の方針と言います。

 わたくしが問題視するのは、日本国家の政権中枢に、この様な反日、嫌日宗教が浸透し、それを経済安保、軍事安保を強く主張する保守政治家たちが、その本質を知りながら選挙支援欲しさに許容はおろか支援さえしていたことです。彼らはまさに国民への裏切りをやっていたのです。この様な反国家の政治家をうやむやにして幕引きにしてはならないと思います。なぜならさらに巧妙なのは中国だからです。

 中国は、国家戦略として「世論戦」「心理戦」「法律戦」と言う謀略戦すなわち“三戦”を持つ。孫子の兵法では、軍事力行使による“戦って勝つは下策”、様々な謀略により“戦わずして勝つ(不戦屈敵)が上策”と言うではありませんか。既にオーストラリアは、経済、政治が中国に乗っ取られる危機にある事に気づき、対中政策を180度変更しました。それは経済人、マスコミ、報道、教育、政治家に巧みに親中勢力が浸透し、国家そのものが中国にコントロールされる危機に目覚めたからです。日本も、このセキュリテイの自覚が必要です。既に世界各地の大学で「孔子学院」が中国政府のプロパガンダ目的で設置され、教育・学問の世界が謀略下に置かれていた。日本の大学も例外ではない。今回の旧統一教会事件への政治家たちの脇の甘さは看過してはなりません。

 経済・軍事安保と共に“政治家安保”が必須だと言うのが、わたくし(バイブル・ソムリエ)の提議です。ハニー・トラップは異性だけだはないのです。政治家の弱点を狙って甘い罠(ハニー)を仕掛けてくるのです。各政党所属政治家への謀略セキュリテイ教育が急務です。さもないと亡国の憂き目にあうからです。政治家安保の意味です。

サタンでさえ光の御使いに変装します (コリント第二の手紙 11章14 節)

(2)被害者補償と今後の予防策の根本

(a)保障と予防の経緯をたどる

 第二のイシューは、「被害者補償と今後の予防策の根本」です。痛ましい旧統一教会信徒とその家庭の経済的破綻と崩壊の被害が、次々明るみに出され宗教の恐ろしさが毎日の様に報道されています。わたくしの様に半世紀にわたってキリスト教の牧師を勤めて来た者にとっては、迷惑この上もない。クリスマスやキリスト教式結婚式のようなムード的キリスト教には親しんでも、教えを詳しくは知らない一般人には、旧統一教会もキリスト教の一派と思って、結局キリスト教の実態もこう言うものか、恐ろしい警戒しようと、TV報道などから悪影響を受けています。

 たとえばTVのワイドショーで旧統一教会信徒が什一(じゅういち:十分の1)献金をしているとオドロオドロしく紹介されると、コメンテーターが何と恐ろしいと反応し、ゲストで韓国の大手新聞東京支局長に意見が求められ、自分は正統キリスト教会信徒で什一献金は聖書に書かれていて、当たり前ですよと反論され、びっくりする。日本では識者と言ってもこの程度のキリスト教理解ですから。

 そして日本政治への悪影響もさることながら、元首相殺害にまで至った犯罪容疑者が、旧統一教会の被害者であったことから、続々と同様な被害者が現れ、現に裁判になっている損害賠償額だけでも数十億円に昇り、その被害は甚大である。何とか旧統一教会に損害賠償をさせるか、献金を取り戻せないか、既存の法律では困難であり、新法を制定してでも被害者救済を図ろうと国会で審議しています。法的には被害者救済の法律が成立しても、法律制定後の被害者の救済できても、「法律不遡及の原則」により新法制定以前の被害には適用されず、苦慮しているようです。現実の被害者を知っている者の一人として、何とかならないかと歯がゆい思いです。

(b)問題の根本

 さて、以上の様な現場・現実を踏まえた上で、ここで敢えて厳しい事を述べなければなりません。それは、日本だけが旧統一教会のいい“かも”にされて、その莫大な資金源とされていた。日本の信徒はお人よしと海外のキリスト教徒からは思われていると言う事です。そもそも旧統一教会発生の韓国では、宗教産業と思われ、正統的キリスト教信徒はキリスト教の異端として相手にしていない常識です。文鮮明教祖が盛んに活動したアメリカでも、政治的ロビー活動を盛んにやる新興宗教視して、福音派もリベラル派からも異端視されていた。フランスでは宗教活動は自由ですが、「フランス人権宣言」を国是とする国家として人権侵害の宗教活動には敏感で、2001年制定の「反セクト法」と言う人権侵害的カルト宗教規制の法律がある。そもそも同法成立のいきさつに旧統一教会の活動が人権侵害に当たると認定され、厳しく取り締まられ今や一掃されている。フランスでは、他に日本の宗教では創価学会、霊友会、崇教真光教、幸福の科学、が反セクトとして規制されているのです。今回の事件で日本でも「反セクト法」に倣った法律の設立を求める動きがありますが、宗教の正邪の基準がなく難しいのです。

(c)なぜ日本に被害が集中するか?

 では日本と他国とどこが違うのか?なぜ一人日本だけに被害が集中するか?と言う疑問です。様々な答があるでしょが、わたくしはこう考えます。「正典」の有無です。日本には社会の根本的規範としての「正典」がない。「正典」と言うはキリスト教用語でカノン、基準ですので、もっと一般化して「聖典」でも結構です。単に宗教だけでなく、倫理道徳の根本的社会規範がないのです。しかし、先ほどの例示した国〃にはキリスト教が根づき、信徒であるなしに拘わらず、人々の無意識に暗黙の規範として「聖書」の教えがあるのです。これはキリスト教文明圏に限りません。イスラム文明圏には「クルアーン」が、インド文明圏には「ヒンズー教諸教典」が、中国文明圏には四書五経という「儒教教典」が、他のアジア文明圏には「仏教経典」が根本規範としてあります。しかし、ひとり日本文明にはあらゆる宗教が流れ込みながら、根本規範が無い。

(d)正典なき社会の問題

 日本の独自精神文化を研究する「国学」の祖、本居宣長は「玉勝間」で、純粋な日本のこころを「やまとごころ、大和魂」とし、「からごころ、漢意」として儒教を排し、「ほとけごころ、仏意」として仏教を排し、徳川政権は「やそごころ、耶蘇意」としてキリスト教を排除しました。規範を嫌うのです。しかし現実には何らかの倫理道徳宗教的判断をしなければ、社会は成り立ちません。日本人の「やまとごころ」の基準は何か、これこそキリスト者思想家山本七平氏が明察した「空気」の支配です。いわゆるKYです。われわれは空気に弱い、空気は基準がないからその時々でどう流れるか分からない。抵抗し難い時代の空気の同調圧力に押し流され第二次大戦の悲劇に突入し、何か抵抗し難い宗教的カリスマの説く教えにマンド・コントロールされて、旧統一教会の悲劇になった、と言えるのではないでしょうか。

 しかし「正典」あるいは「聖典」があれば、これはおかしい、と自己の無意識のうちに形成された判断基準にしたがって、その場の空気に流されないで済むのです。実例を挙げます。現代フランスの歴史学者E.トッドによると、フランスでは1950年代まではカソリック信徒が一般的であった。しかし以後急速に世俗化が進み、信仰は冷却し教会出席が激減した。そして公共の場での世俗化・非宗教化「ライシテ」が進み、増加したイスラム教徒移民の宗教慣習も、公教育では認めない事で大きな社会摩擦が起こっています。しかしトッドが言うのに現在のフランス人は、信仰なきカソリックである、と。彼らは最早神を捨てた、しかしイスラム・フォビア(イスラム嫌い)は底流にあるし、「反セクト法」を作り、カソリック以外の宗教をカルト視して排除している。さらに身近な隣国、韓国でも事情は似ています。韓国はキリスト教国ではない、仏教も盛んです。しかし抗日独立運動の中核を担って戦ったキリスト教会は国民の敬意を集め、世界有数の正統派キリスト教会の勢いです。ですから社会の根底に倫理道徳宗教の判断基準の「正典」としての「聖書」があるのです。福音派キリスト教の盛んな米国は言うまでもありません。

(e)丸山真男の遺言

 戦後民主主義の旗手であった、政治学者丸山真男氏は、晩年「正統と異端」研究に力を注いで、業績半ばに亡くなった(「近代日本思想史講座」筑摩書房、2巻「正統と異端」の未完成)。なぜこんな宗教的課題に最後の力を振り絞って丸山氏は取り組んだのか、理解に苦しむ向きが多かった。しかし最近岩波書店から「丸山真男集」が公刊され、研究会の記録が公表されて分かった。丸山氏は日本には民主主義を支える普遍的「正統」思想がない、「異端」好みで、本格的な歴史に耐え得る揺るがぬ正統思想が無い。ここに日本の民主主義の弱さの根本原因がある、と末期の目で憂いていたのです(「丸山真男集」4巻、「正統と異端」)。丸山氏が、その原因は「正典」がないからだ、と言う。

 丸山氏によると正統性は、普遍的教義や思想に基づく「オーソドキシー」としての「O正統」(学統、「はじめにロゴス(言葉、原理、真理)ありき」ヨハネ福音書1:1)と、国家や民族内の血統統治「レジテイマシー」に過ぎない「L正統」(治統、「はじめに血ありき」)があり、日本は血統の継承である「L正統」はあっても(血統の継承による天皇制が代表、女性天皇を認めるか否かの議論の理由はここにある)、普遍的教義や思想の継承と言う「O正統」がない。「O正統」では対抗する教義・思想は「異端」となるが、「L正統」では、血統(天皇制国体)に対抗する者=異端=非国民、となる。要するに「正典」・正統的普遍的根本規範が無いので、結局「空気」による状況判断で、選択を誤ってしまう。さりとて今さら宗教教典を広げるのは無理だから「日本国憲法」を疑似「正典」として根本判断基準にしようと丸山氏は考えていたのではないか、と当時研究会に出席した学者は述べています。

(f)丸山氏の遺言を生かす道

 わたくしは思います。丸山氏の洞察は半分正しく、半分誤っていると。日本の国家社会に根本規範が無く、空気の支配する危険性を第二次大戦を身を以て経験した丸山氏が、根本規範を求め、文明の基礎である「正(聖)典」の必要性を痛感したしたことは流石、学者の中の学者の遺言として高く評価します。これが半分正しいと評価する点です。

 しかし丸山氏は東大法学部政治学の恩師、無教会派キリスト者南原繁元東大総長の深い影響を尊重しつつも、キリスト教が少数派であるに鑑み、明治維新の近代主義者、福沢諭吉の民権思想=議会制民主主義を採り、その結実としての「日本国憲法」を疑似「正(聖)典」化しようと考えていたらしい。しかし憲法改正論議のくすぶり続ける現在、中々危うい思考だと思います。そもそも「正(聖)典」は、原典に於いて神聖な言葉として、一言一句一切変更しない書であり、現実との乖離は解釈で適応すべきものです。しかし、憲法は日本国憲法の様に改正手続きが困難な「硬性憲法」であっても不磨の大典ではなく、改正可能です。なぜなら相対的な人間の言葉ですから。ですから丸山氏の心情は理解しますが、ここは「正(聖)典」“もどき”ではなく、たとえ遠回りに見えても堂々と「正典」聖書を日本社会の根本規範として広める努力を惜しんではならないのです。ここに微力とは言え、日本のキリスト教会と信徒のミッションがあると言えます。わたくしも半世紀にわたり微力を尽くしてまいりましたが、傘寿となった今後も命ある限り、使命に生きたいと覚悟しています。

(g)倫理の決定権はどこに?

 ここに以前紹介した、根本規範についてのエピソ-ドを再録して証言とします。

 文春2021・7月号に興味深い記事があった。池上彰さんと保坂正康さんの対談で、保坂さんがアメリカのナッシュビルで講演をした後の質疑の時の事。一人の米人研究者、彼はカエルのクローン研究をやっていた。世界各国から研究者が彼の研究室に集まっている。あるとき、今はカエルだが、やがてこれは人間のクローンになる可能性がある。こう言う恐ろしい可能性ある研究が果たして許されるかどうか、と言う研究の根本的倫理問題であった。議論はそれこそ甲論乙駁、炎上し収拾がつかなくなった。

 そこで研究のリーダーが、科学者が決められない時、皆さんの国ではどこが、倫理の決定権を持っていますか?と質問を投げかけた。すると米人研究者は“それは教会だ!”とためらわず答えた。中国ではと、中国人研究者に問われると“それは共産党だ!”との答え、さもありなんと言う他国の研究者の表情。では日本では?と日本人研究者に水を差し向けると、“さあ、多分マスコミではないかなあ?”と言う答え。みなビックリして“え~、日本ではマスコミが倫理の決定権を持っているのか!”と呆れた表情であった、と保坂さんは感想を記していました。

 米国はずいぶん世俗的な国家だと思われていますが、あらゆる多様な民族からなる社会をまとめる精神的支柱が無ければ混乱・無秩序になってしまう。そこに建国以来のピューリタン信仰の教会があって、社会は倫理の最終決定権を認めているのです。また現代中国は、それこそ14億人の膨大な人間を「中国共産党」が一党支配して何とかまとめている。そもそも中国には古代以来「天命」思想があり、天命によって選ばれた者が天子=皇帝となり歴代「王朝」が興った、しかし民衆の信任を失うと天命が改まり「革命」となり新たな天子が皇帝として選ばれ、新たな「王朝」が興される。習近平主席=皇帝、「中国共産党」=天子がたとえ「天命」であっても永遠ではなく、ひとたび民の信任を失えば、「天命」が改まり「革命」によって、次の王朝となるのです。と言う事で「共産党」支配下の現状では根本規範として「共産党」決定に従っています。しかしもし天命が改められる時は、その信徒数1~2億人と言う、枯草に火を放つ勢いで広がっている中国キリスト教こそが「中国共産党」支配の、次の「王朝」のキャステイング・ボートを握っていると信じています。

 しかし日本社会では、マスコミに倫理の決定権があるとしたら、マスコミは世論調査を実施して決めます。世論は瞬間風速、風向であって、それこそ時代の「空気」でどう風向きが変わるか分かったものではなく、また責任を取らない気まぐれなものです。そんな決定はいかに危ういものか!どうしても気まぐれな風向きに拘わらず、常に極北を指す「磁石、コンパス」が必要なのです。

 今や預言者丸山氏の望んだ「磁石」すなわち日本社会の根本規範として、「正(聖)典」それも疑似(まがいもの)でなく、真実の「正典」聖書を日本社会は迎えるべき時が来ているのではないでしょうか。

 以上、わたくしが旧統一教会事件から学んだことは、「政治家の安保」と「国民の根本規範」の必要性 です。読者諸賢の御一考に資すれば幸いです。

人はみな草のよう。その栄えはみな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは永遠に立つ (ペテロの手紙 第一、1章24、25節)

主の2022年 待降節、傘寿を期して記す。