※写真は、「荒木村重を説得する右近」柳柊二・画
『キリシタン史からのメッセージ』
高槻・Ucon:第22回
久保田 Ucon 典彦
阿武山福音自由教会 教会員
「髙山右近研究室・久保田」主宰
※写真は、「荒木村重を説得する右近」柳柊二・画
『キリシタン史からのメッセージ』
高槻・Ucon:第22回
久保田 Ucon 典彦
阿武山福音自由教会 教会員
「髙山右近研究室・久保田」主宰
※写真は、大分・遊歩公園の「聖フランシスコ・ザビエル像」
『キリシタン史からのメッセージ』
高槻・Ukon:第21回
久保田 Ucon 典彦
阿武山福音自由教会 教会員
「髙山右近研究室・久保田」主宰
『キリシタン史からのメッセージ』
高槻・Ukon:第20回
久保田 Ukon 典彦
阿武山福音自由教会 教会員
「髙山右近研究室・久保田」主宰
● フランシスコ ・ ザビエルは、鹿児島に到着して 間もなく、
当時、伊集院にいた 薩摩領主 ・ 島津貴久を 表敬訪問しました。
その時、日本に持ってきた 「 聖母子像 」 の絵を 貴久に見せました。
「 領主に引見された時に、パウロ ( 弥次郎 ) は、私たちが インドから持ってきた 聖母の、たいそう 敬虔な聖画を持参しました。 領主は、そこに居合わせた すべての人たちに、彼と同じように 拝むことを命じられました。
その後、領主の母堂に、聖画を お見せしましたところ、彼女は聖画を見て感激し、大変 お喜びになりました。
数日の後、領主の母堂が、一人の家臣を遣わして、
“ この聖画と 同じものを作るのには、どうしたらよいか ” とたずねてこられました。しかし、この地方には 材料がないので、聖画を作ることは 断念しました。」
島津貴久も 彼の母も、たぶん “ 観音像 ” と思い込んで 礼拝したのだろうと 思われます。
『キリシタン史からのメッセージ』
高槻・Ukon:第19回
久保田 Ukon 典彦
阿武山福音自由教会 教会員
「髙山右近研究室・久保田」主宰
● 一般信徒 ・ 平信徒。
最近では、レイマン layman ・ レイウーマン laywoman という言葉もよく使われるようになってきました。
キリシタン時代だけではなく、現代であっても、いつの時代であっても
神に関する働きは、特別な人たち ・ 司祭や牧師によってのみ 進められるものではありません。
主イエス ・ キリストによる [ 大宣教命令 ]
「 全世界に出て行って、あらゆる国の人々を 弟子としなさい。教えなさい。」 ━━ というのは、
一部の人たち ・ 司祭や牧師に語られた 命令ではありませんでした。
すべてのクリスチャン ・ 信徒に対する命令です。
高槻・Ukon:第18回
久保田 Ukon 典彦
阿武山福音自由教会 教会員
「髙山右近研究室・久保田」主宰
● 豊臣秀吉が、1587年に出しました 「 伴天連追放令 」 ですが、髙山右近の所にも、秀吉から、使者が遣わされて来て、“ 信仰を捨てて、秀吉だけに仕えるように ” 命令してきます。
右近は、「 関白秀吉様のことを 大切に考えて、お仕えするつもりに 変わりはありませんが、神 ・ デウス への信仰を捨てるということは、話が違います。
神 ・ デウス への信仰を捨てる、ということは出来ません。」と、はっきりと 答えました。
高槻・Ukon:第17回
久保田 Ukon 典彦
阿武山福音自由教会 教会員
「髙山右近研究室・久保田」主宰
● 髙山右近 他、キリシタン時代の 茶の湯において、
「 市中の山居 」 「 和敬静寂 」 「 一座建立 」 ( こんりゅう ) の 3つの精神は、殊に 大切なことと 考えられていました。
“ 世間の すべてのものから離れて、真の 心の自由に至り、世の移り変わりを越えて、心の安定と平和に至る ” ━━ ために、茶の湯の道を 追い求めていったのでした。
● [ 市中の山居 ] ( しちゅうの さんきょ ) について、
ロドリゲス が 「 日本教会史 」 の中で、キリシタン茶人達から聞き取ったと思われる内容を、くわしく 書き留めてくれています。
髙山右近のことも 記していますから、
[ 利休七哲 ] で “ 利休 極上一の弟子 ” であった 髙山右近からも、多くのことを聞き取り、教えを受けたことを 書いていったことでしょう。
高槻・Ukon:第16回
久保田 Ukon 典彦
阿武山福音自由教会 教会員
「髙山右近研究室・久保田」主宰
● フランシスコ ・ ザビエルが 宣教師として、キリスト教的基盤の一切ない 日本の国にやって来て、それまで 人々が 聞いたことのないような、キリスト教の 神や信仰を伝えていったわけですから、その大変さは、私たちの想像を はるかに超えたものだったことでしょう。
日本人に 日本語で キリスト教を伝えていくために、パウロ弥次郎という よき協力者を得たわけですが、弥次郎の 宗教的基盤は、仏教の 真言宗でしたし、それ以外に 日本語としての キリスト教用語なんて ないわけですから、既成の言葉の中で、最も近い意味の言葉を選んでいくしかありません。
高槻・Ukon:第15回
※写真は、大分駅前の「フランシスコ・ザビエル像」
久保田 Ukon 典彦
阿武山福音自由教会 教会員
「髙山右近研究室・久保田」主宰
「耳でだけ説教を聞くより、この目で説教を見たい。
ただ正しい道を教えるだけの人より、正しい道をともに歩く人がほしい。
そして、何にもまして望ましいのは、説教者たちが、彼らの信条どおりに歩むことだ。なぜなら、だれもが必要としているのは、正しいことが実行されているのを見ることだから。」(エドガー・A・ゲストの言葉)
日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルは、1547年12月7日頃に、マラッカで初めて、日本人・弥次郎と会いました。
弥次郎は、かなりポルトガル語が話せましたので、通訳なしで、直接に、日本人と意志の疎通が出来たわけで、ザビエルは、弥次郎と出会ってから急速に、日本人や日本社会に関心を寄せていくことになります。
高槻・Ukon:第14回
久保田 Ukon 典彦
阿武山福音自由教会 教会員
「髙山右近研究室・久保田」主宰
「 河内キリシタン 」の 三木半太夫の息子で、「 日本二十六聖人 」の一人となった 三木パウロ が、十字架上から語った 最後の言葉が ルイス・フロイス神父によって記録されていますが、どのような内容だったのでしょうか。
「 日本二十六聖人 」と言われている人たちが、長崎の 西坂の丘で十字架にかけられ 殉教したのは、1597年2月5日。
当時、長崎にいた ルイス・フロイス神父が、1か月後の 3月15日付で、殉教者たちの 最後の様子を 記録にとどめてくれています。
高槻・Ukon:第13回
久保田 Ukon 典彦
阿武山福音自由教会 教会員
「髙山右近研究室・久保田」主宰
● 豊臣秀吉、続く 徳川家康や 秀忠、江戸幕府による 過酷なキリスト教禁教 ・ 迫害 ・ 弾圧が続いていき、バテレン ( 宣教師 ) や キリシタン達は、大変な経験をされていったわけですが ・・・・・・・
戦国の この時期の弾圧が、歴史的に 他に例のないほどの 特別なものだったのか ━━ というと、それは そうではないようです。