苦悩する髙山右近 − 久保田Ucon 典彦 −

※写真は、「荒木村重を説得する右近」柳柊二・画

『キリシタン史からのメッセージ』
 高槻・Ucon:第22回 

 

 

久保田 Ucon 典彦
阿武山福音自由教会 教会員
「髙山右近研究室・久保田」主宰

 

苦悩する髙山右近

● 1578年、荒木村重の、織田信長に対する謀叛。
 荒木村重は、織田信長によって、“ 摂津国主”として任ぜられており、高槻城主・髙山右近は、その配下に置かれていました。
織田信長 ━ 荒木村重 ━ 髙山右近
その荒木村重が、主君である信長に反逆したわけですから、右近は、有岡城に出かけて行って、軍評の席で、“自らの良心に従って” 荒木村重に意見を述べます。
「恐れながら申し上げます。
池田勝正様の一家臣であられた殿を、摂津の国主に任命なさったのは信長公。いわば信長公は、殿の恩人と申せましょう。
その恩人に対して弓を引くことは、不正であり、忘恩と心得ます。」

 右近が、“ 信長に取り入ろうと目論んでいるのではないか” と疑う者たちもいて、右近は、妹と、更に息子・十次郎を人質として差し出してまで、村重を説得したのでした。
村重も、右近の言葉に感動して、一旦は、信長に謝罪するために出かけますが、途中で引き返してしまい、結局、信長を敵にして戦うことになってしまいました。
右近は立場上、村重が信長に従っていて一体である限りは、村重の臣下であり、村重に従う責任がありますが、村重が信長に反逆した今は、右近は、形の上では村重の臣下ですが、実質は、本来の主君である信長の臣下である━ ということになります。
 右近には、“ 村重が正しくない”。そして、謀叛人側につくのではなく、信長側について味方することが、彼の義務であることは、自らの良心・信仰に照らしても、明白なことである━ とわかっており、そのことで、ブレたり・迷ったりすることはなかったのですが ・・・・・・・
 最大の難事は、「人質」です。
人質として、村重に差し出している、息子と妹のことです。
村重に背き、信長側につくことは、二人の人質の確実な死を意味していました。
これが、戦国時代のやり方です。
「人質」や「姻戚関係」で、つなぎ止め・結びつけている世界です。
右近が信じている、キリスト教の信仰・信頼や愛によって結びつけられている世界、「神の家族」としてつながっている世界とは、決定的に違います。
右近は、反逆者である荒木村重方に身を置きながら、悩みに悩みます。祈りに祈ります。
 父・飛騨守は、人質であるわが子と孫(右近の妹と息子)の生命の安全を考えて、早々に、謀叛側に回ってしまいます。
右近の悩みは、更に大きなものとなってしまいました。
あの、アブラハムに、主なる神が、「ひとり息子のイサクをささげよ!」と言われて、悩みに悩みながら、モリヤの山に向かって行ったアブラハムと重なってしまいます。(旧約聖書・創世記 22章)
 結果的には、アブラハムと同じように、右近の場合も、「主の山に備えあり」で、人質である妹や息子の生命さえもデウス(神)に委ねて行動していった時に、反逆者側につくこともなく、人質も殺されることなく、万事が益に導かれていったのでした。
 
※写真は、
「荒木村重を説得する右近」柳柊二・画

 (髙山右近研究室・久保田蔵)

[ 参考図書] 「完訳フロイス日本史3」
(川崎桃太、松田毅一・訳、中公文庫)
ーーーーーーー

 

 

 

久保田 Ucon 典彦

阿武山福音自由教会 教会員
「髙山右近研究室・久保田」主宰

ホームページ:
[髙山右近研究室・久保田へようこそ]
ブログ: [ 髙山右近研究室のブログ ]

「髙山右近研究」をライフワークにしています。
髙山右近やキリシタン達を通して、いっしょに考えていければと思います。