『終戦の記念日に思う』 〜 「脱亜論」から「隣国謝絶論」へ 〜 −井草晋一-

写真:日韓首脳会談(2018年5月9日) 外務省HPより

 

 

井草晋一SALTY 編集長
・ピヨ バイブル ミニストリーズ 代表
・Piyo ePub Communications 代表

隣国(韓国)政府の姿勢と対応

韓国の文在寅(ムン・ジェイン)大統領は2月26日の閣議で、「親日を清算して独立運動を適切に礼遇することが正義ある国に進む出発点だ」と述べました。
3月1日に日本の植民地支配に抵抗して起きた「三・一独立運動」から100年を迎えるのを前に、支持層に訴えるねらいとみられる、とのことではありましたが、韓国の現政権の日本に対する姿勢が明確に現れていたと言えましょう。

 昨年12月20日に起きた、韓国海軍駆逐艦による海上自衛隊 P-1 哨戒機に対する攻撃用レーダー(火器管制レーダー)照射問題に対する韓国政府の対応は、多くの日本国民に隣国の政府に対する疑問や不信感を起こさせるものでした。

 また、韓国大法院(最高裁)が三菱重工業に元徴用工や元朝鮮女子勤労挺身(ていしん)隊員らへの賠償を命じた訴訟の判決に対して、韓国政府の対応がなされない中で、7月23日に、原告を支援する韓国・光州の弁護団が差し押さえた同社資産の売却を裁判所に申請したことが明らかになりました。日本企業資産の売却手続きが取られるのは日本製鉄、不二越に続き三菱重工が3社目となります。

日本政府の姿勢と対応

 これらの経緯の中で、日本政府は7月1日に韓国向けの半導体など材料3品目(「フッ化ポリイミド」、「レジスト」、「フッ化水素」)の輸出規制を厳格化する措置を発動しました。理由としては、「韓国の輸出管理に不十分な点があり、不適切な事案が起きた」こと、さらに、元徴用工問題で「6月下旬の20カ国・地域首脳会議(G20大阪サミット)までに満足する解決策が示されなかった」ことが挙げられています。

 政府は、明日の8月2日にも輸出先として信頼できる「ホワイト国」(現在27カ国)から韓国を外す追加措置を発動する方針であると報道されています。実施された場合、3品目だけではなく、食品・木材除いて、工作機械や先端素材、化学薬品などの軍事転用可能な幅広い部材も、韓国向け輸出で政府の個別許可が必要になるとのこと。

 この度の日韓貿易問題(韓国向けの半導体材料の輸出管理厳格化)は、いわゆる「慰安婦」問題、また、同じく、いわゆる「徴用工」問題に関して、日韓の基本条約をいささかも顧みず、また、「日韓請求権協定」に基づく度重なる日本政府からの会談(協議)の要請にも対応しなかった、文政権にこそ、その責があると考えます。

<一国(韓国)の現政権の対応の誤り>によって、日韓両国の国民の間に相互不信や感情的な軋轢が生じてくることは、避けなければなりません。

 しかし、国際法や当該国同士の基本条約の条文や合意事項を顧みず、また、戦略物資や大量破壊兵器の材料となる貿易品目の輸出管理に多きな疑念が生じている韓国政府の対応(攻撃用レーダーの照射問題、また、韓国船の北朝鮮船舶との間の「瀬取り」問題、「徴用工」問題なども含め)が続いてきた<現状>は、日本国民としてしっかり踏まえておかなければなりません

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<日経新聞: 6/18>
・・・「日韓請求権協定」の第3条は2国間の協議で解決できない場合として仲裁委の手続きを定める。日本は1月9日に韓国に同協定に基づく協議を要請した。韓国が「検討中」としたまま4カ月以上、回答を示さなかったため5月20日に仲裁委の設置を要請した
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以下の一文は、ちょうど2年前の8月15日付で記したもので、その数日前にある新聞社のオピニオンサイトに投稿したものです。

『終戦の記念日に思う』 〜 「脱亜論」から「隣国謝絶論」へ 〜

その後、facebook で限定公開しておりました。
2年が経過していますが、その本質的な課題はいささかも変わることなく今も続いていると言えるのではないでしょうか?
福澤諭吉の『脱亜論』を再読し、日韓関係を一度「白紙の状態」にしてから再構築する必要があリます。

その意味では、様々な国際関係上の制約、また、時には日韓問題に大きく関わっているアメリカ政府の意向もあるかと思われますが、「8月2日にも輸出先として信頼できる「ホワイト国」(現在27カ国)から韓国を外す追加措置を発動」の方針は、実施に移すことが今後の両国の関係を再構築する上で重要な政策であると言えましょう。

なお、今回の問題のゆえに、在日の方々の生活や仕事、また、すでに日本国籍を取得されておられる朝鮮半島(特に、韓国)出身者の尊厳や文化的・民族的アイデンティティが損なわれることがないようにと、切に願うものです。

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『終戦の記念日に思う』  2017-0815
− 『脱亜論』から『隣国謝絶論』へ −

井草晋一 (「ピヨ バイブル ミニストリーズ」代表 )

 近年の中国の動き(尖閣諸島への領海・領空侵犯、および、南シナ海での岩礁埋め立てと軍事基地化)、北朝鮮の核開発・ICBM、拉致問題、そして、日韓両国で合意した「慰安婦問題日韓合意(*1)」に反する、慰安婦問題の最終的解決に関する蒸し返しと、フィクション映画『軍艦島』(*2)の影響と歴史的事実に基づかない「徴用工」の賠償請求などなど。

 なるべく波風を立てないように、また、「和もって貴しとなす」という聖徳太子の言葉(*3)とされ、社会的価値観や近隣諸国や民族との融和を図ろうとする、日本民族として受け継がれてきた「日本的価値観」や「武士道精神」、「共同体的規範」も、限界点に来つつあるのではないかと感じています。
どんなに柔軟なゴム風船でも、悪い空気をあまりにも吹き込みすぎたり、また、適度に抜くことをしないでおくと、破裂してしまうものです。

 福澤諭吉が執筆したとされる、『脱亜論』(だつあろん)。

 初出は、『時事新報』1885年(明治18年)3月16日付(917号)ですが、その内容が現代の日本が置かれている状況とあまりにも似てきていると感じています。
この小論文のタイトルは、おそらく日本の明治維新とその後の国際関係を論じた前半の最後の一文、「・・アジア全域の中にあって、一つの新機軸を確立し、主義とするのはただ、脱亜の二字にあるのみである。・・・(*4)」から取られて「脱亜論」とされ、時に「脱亜(支那、朝鮮)論」の意味でも適用(誤用?)されているようにも思えます。

 しかし、その本質、主要な論点は後半にあり、最後の一文、「・・・むしろ、その仲間から脱出し、西洋の文明国と進退をともにし、その支那、朝鮮に接する方法も、隣国だからと特別の配慮をすることなく、まさに西洋人がこれに接するように処置すべきである。悪友と親しく交わる者も、また悪名を免れない。筆者は心の中で、東アジアの悪友を謝絶するものである。(*4)」の内容から、『隣国謝絶論』の意味で、表題を理解した方が良いように思われます。
「謝絶」とは、辞書によると「人の申し出などを断る」「面会を<謝絶>する」の意味があり、まさに、【断固として】refuse; 【丁寧に】decline. <断る!!>という意味です。
人間関係においても、時には「謝絶」して初めて、相手方がその「非」に気づくこともあれば、「謝絶」で一度は絶たれた関係であったものが、その後に「真理」や「事実」が明らかになり、あらためて「正義」に基づく新しい関係の回復がなされる場合があります。

 「筆者は<心の中で>、東アジアの悪友を謝絶するものである。」

 このような意味合いにおいて、福澤は「筆者は<心の中で>、東アジアの悪友を謝絶するものである。」と記していますが、現代の日本と三隣国(中国、北朝鮮、韓国)との関係においては、日本民族として一人一人の<心の中>ではなく、国際関係上、すなわち、政治的にも民間交流においても『謝絶』<断固として、丁寧に【断る】こと>が「必須」に思われます。
福澤は、「脱亜」よりもさらに厳しい「謝絶」の必要を明確に語っていたのではないでしょうか。
『謝絶』によって、「真実」や「真理」が明らかになり、「正義」に基づく新しい「隣国との関係回復」の時が来ますようにと、切に願うものです。

 最後に、この<「脱亜論」から「隣国謝絶論」へ>の一文に記した『謝絶』の対象とは、福澤と同様に、かつての「支那と朝鮮」、すなわち現代の「中国と北朝鮮と韓国」の人々(普通に誠実に市民生活をしている民衆)を指しているのではなく、政権のトップ、指導者たち、およびフィクションやファンタジーの事柄を事実のように語り、人々を偽り扇動している、国営、民間のマスメディアを念頭に置いていることを、あらためて明記いたします。

 キリスト者としても、これら三国の兄弟姉妹たちのことを心に刻み、苦難の中にある人々の救いと平安を祈り、共に天の御国を慕い求め、主なるイエス・キリストの再び来り給うことを、切に願います。
キリストの正しい裁きと正義による統治がなされますように。

・「真実な交わりの回復」を信じて「悪しき交わり」を断つ
(使徒パウロの教えより)

・「愛をもって真理を語り、尊敬をもって人を自分よりも優ったものと思いなさい。」
(「関係回復の道」:聖書の言葉より)

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(*1)— 2015年(平成27年)12月28日の日韓外相会談で結ばれた、日本軍の慰安婦問題を最終かつ不可逆的に解決するために行われた日本政府と韓国政府の合意。

(*2)— 長崎市の軍艦島(端島)をテーマにした韓国映画「軍艦島」。
2017年7月26日に韓国で封切られた、ファンタジーとフィクションに基づく映画。

(*3)— 聖徳太子が制定した「十七条憲法」の第一条に出てくる言葉で、人々がお互いに仲良く、調和していくことが最も大事なことであるという教え。
これは、大和朝廷に仕えた数多くの渡来人たちの価値観や歴史をも大切にし、相互理解を深めようとする当時の大和政権の意向もあった、と推察されます。

(*4)— Wikisource 『脱亜論』の「現代語訳」より

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Wikisource には、『脱亜論』の「現代語訳」があります。
以下の文章をご一読ください。
https://ja.wikisource.org/wiki/脱亜論 より
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『脱亜論』

 世界の交通の道は便利になり、西洋文明の風は東に進み、至るところ、草も木もこの風になびかないことはない。西洋の人物は古代と現在に大した違いはないのだが、その活動が古代は遅鈍、今は活発なのは、ただ交通の機関を利用し、勢いに乗じるがためである。ゆえに最近、東洋に国がある民のために考えると、この文明が東に進んでくる勢いに抵抗して、これを防ぎきる覚悟であれば、それもよい。しかし、いやしくも世界中の現状を観察し、事実上それが不可能なことを知る者は、世の移りにあわせ、共に文明の海に浮き沈み、文明の波に乗り、文明の苦楽をともにする以外にはないのである。
文明とは全く、麻疹(はしか)の流行のようなものだ。
目下、東京の麻疹は西国の長崎地方より東に進み、春の暖気と共に次第に蔓延するもののようである。 この時、流行病の害をにくみ、これを防ごうとするにしても、果してその手段はあるだろうか? 筆者はその手段は断じてないことを保証する。有害一辺倒の流行病も、その勢いにはなお抵抗できない。 いわんや利益と害悪がともない、常に利益の多い文明はなおさらである。 これを防がないばかりではなく、つとめてその普及を助け、国民を早くその気風に染ませることが知識人の課題である。

 近代西洋文明がわが日本に入ったのは、嘉永の開国を発端とする。国民はようやくそれを採用するべきことを知り、しだいに活発の気風が生じたものの、進歩の道に横たわる老害の幕府というものがあり、これはいかんともできなかった。
幕府を保存しようとすると、文明は決して入ってくることができない。なぜかといえば近代文明は日本の旧体制と両立するものではなく、旧体制を改革すれば、同時に幕府も滅亡してしまうからである。 だからといって、文明をふせいてその侵入を止めようとすれば、日本国の独立は維持できなかった。なぜならば、世界文明の慌しい情勢は、東洋の孤島の眠りを許すものではなかったからだ。
ここにおいて、わが日本の人士は、国を重く、幕府を軽いとする大義に基づき、また、さいわいに神聖なる皇室の尊厳によって、断固として旧幕府を倒し、新政府を立てた。政府も民間も区別なく、国中がいっさい万事、西洋近代文明を採り、ただ日本の旧法を改革したばかりではない。アジア全域の中にあって、一つの新機軸を確立し、主義とするのはただ、脱亜の二字にあるのみである。

 わが日本の国土はアジアの東端に位置するのであるが、国民の精神は既にアジアの旧習を脱し、西洋の文明に移っている。
しかしここに不幸なのは、隣国があり、その一を支那といい、一を朝鮮という。この二国の人民も古来、アジア流の政治・宗教・風俗に養われてきたことは、わが日本国民と異ならないのである。だが人種の由来が特別なのか、または同様の政治・宗教・風俗のなかにいながら、遺伝した教育に違うものがあるためか、日・支・韓の三国を並べれば、日本に比べれば支那・韓国はよほど似ているのである。この二国の者たちは、自分の身の上についても、また自分の国に関しても、改革や進歩の道を知らない。交通便利な世の中にあっては、文明の物ごとを見聞きしないわけではないが、耳や目の見聞は心を動かすことにならず、その古くさい慣習にしがみつくありさまは、百千年の昔とおなじである。

 現在の、文明日に日に新たな活劇の場に、教育を論じれば儒教主義といい、学校で教えるべきは仁義礼智といい、一から十まで外見の虚飾ばかりにこだわり、実際においては真理や原則をわきまえることがない。そればかりか、道徳さえ地を掃いたように消えはてて残酷破廉恥を極め、なお傲然として自省の念など持たない者のようだ。
筆者からこの二国をみれば、今の文明東進の情勢の中にあっては、とても独立を維持する道はない。幸い国の中に志士が現れ、国の開明進歩の手始めに、われらの明治維新のような政府の大改革を企て、政治を改めるとともに人心を一新するような活動があれば、それはまた別である。もしそうならない場合は、今より数年たたぬうちに亡国となり、その国土は世界の文明諸国に分割されることは、一点の疑いもない。
なぜならば、麻疹と同じ文明開化の流行に遭いながら、支那・韓国の両国は伝染の自然法則に背き、無理にこれを避けようとして室内に閉じこもり、空気の流通を遮断して、窒息しているからだ。

 「輔車唇歯」とは隣国が相互に援助しあう喩えであるが、今の支那朝鮮はわが日本のために髪一本ほどの役にも立たない。のみならず、西洋文明人の眼から見れば、三国が地理的に近接しているため、時には三国を同一視し、支那・韓国の評価で、わが日本を判断するということもありえるのだ。
例えば、支那、朝鮮の政府が昔どおり専制で、法律は信頼できなければ、西洋の人は、日本もまた無法律の国かと疑うだろう。支那、朝鮮の人が迷信深く、科学の何かを知らなければ、西洋の学者は日本もまた陰陽五行の国かと思うに違いない。支那人が卑屈で恥を知らなければ、日本人の義侠もその影に隠れ、朝鮮国に残酷な刑罰があれば、日本人もまた無情と推量されるのだ。事例をかぞえれば、枚挙にいとまがない。
喩えるならば、軒を並べたある村や町内の者たちが、愚かで無法、しかも残忍で無情なときは、たまたまその町村内の、ある家の人が正当に振るまおうと注意しても、他人の悪行に隠れて埋没するようなものだ。その影響が現実にあらわれ、間接にわが外交上の障害となっていることは実に少なくなく、わが日本国の一大不幸というべきである。

 そうであるから、現在の戦略を考えるに、わが国は隣国の開明を待ち、共にアジアを発展させる猶予はないのである。むしろ、その仲間から脱出し、西洋の文明国と進退をともにし、その支那、朝鮮に接する方法も、隣国だからと特別の配慮をすることなく、まさに西洋人がこれに接するように処置すべきである。悪友と親しく交わる者も、また悪名を免れない。筆者は心の中で、東アジアの悪友を謝絶するものである。 (翻訳:三島堂)

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・初出:『時事新報』1885年(明治18年)3月16日付(917号)

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Wikipedia 『脱亜論』(だつあろん)
https://ja.wikipedia.org/wiki/脱亜論
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写真:日韓首脳会談(2018年5月9日) 外務省HPより
https://www.mofa.go.jp/mofaj/a_o/na/kr/page1_000525.html