安倍晋三という総理(3) −中川晴久−


中川晴久
東京キリスト教神学研究所幹事
主の羊クリスチャン教会牧師
日本キリスト者オピニオンサイトSALTY 論説委員

   前回:安倍晋三という総理(2)


「保守」とは 

 歴史問題おいて、安倍総理は「保守」の政治家です。おそらく、このことについて異論のある人は、ほとんどいないでしょう。総理自身は「保守」について次のように言っています。「わたしにとって保守というのは、イデオロギーではなく、日本および日本人について考える姿勢のことだと思う。」と。実に的確な表現です。

  歴史というのは、決して善悪で割り切れるような単純なものではありません。異なった時代における感性や常識には、当然ながら相互にズレがあります。そこにある人種、民族、国家などの違いや対立は、歴史認識における大きなバイアスとなるでしょう。それらのことを考えても、歴史認識問題を考えるにあっては、ちゃんと時代考証をする必要があります。逆に、たとえ時代考証をしても、歴史認識は価値観を1つに定めることはできないでしょう。歴史認識は「イデオロギー」であってはなりません。立場や視点が違えば異なって当然だし、その多様性の中から新しい発見があるからです。

 それでも日本人である以上、そのような多様性の中にあって溢れてくる1つの想いがあるはずです。それを安倍総理は次のような素朴な語り口で述べています。

「この国に生まれ育ったのだから、わたしは、この国に自信をもって生きていたい。そのためには、先輩たちが真剣に生きてきた時代に思いをは馳せる必要があるのではないか。その時代に生きた国民の視点で、虚心に歴史を見つめ直してみる。それが自然であり、もっとも大切なことではないか。」(『美しい国へ』p.26.)

 これが安倍総理のいうところの保守の「姿勢」なのでしょう。現在、私たちがこのようにして生きて、未来に希望をもって歩めるのは、そこに先人たちの労苦や守り伝られてきたものがあるからです。私たちはこれを私たちの子供たちのためにも、継承せねばなりません。先人たちはそれを願って、先の戦争においても命をかけて戦ったのですから。その意味で、彼らの願いも夢も、後に生きる私たちに託されています。安倍総理の言葉はそのことを思い起こさせます。


総理 硫黄島での祈り

 この写真(首相官邸Facebookより)は、第2次安倍政権発足後まもなくして、2013年4月14日に、安倍総理が硫黄島を慰問されたときのものです。青山繁晴氏によれば、総理はこの時体調が思わしくない中で取れた休日を利用して、「これをせねばならない。」と硫黄島に向かったのだそうです。そして、まだ骨が埋もれたままで祖国に帰還していない方々のために、日本の総理として初めて硫黄島にて祈りを捧げられました。滑走路ではひざまずき、手と額を地につけて祈りを捧げています。すでに滑走路の下敷きになって掘り起こせないでいる骨があるからです。

 硫黄島では約2万人の日本兵が戦士しました。まだ半分以上の日本人戦死者たちの骨が埋まったままです。日本兵はここで命を捨てて戦ったのです。なぜでしょうか。ここに私たちが知らねばならないことがあります。

 硫黄島が陥落して米軍に取られることは、日本への空爆の拠点を許すことになります。硫黄島で戦う兵士たちは、一日でも長く硫黄島を守ることができれば、一日でも長く日本人が多く生き延びることができると、戦ったのだそうです。
そのようにして命を落とした先人たちの想いを、日本の総理として日本人の代表として受け取ろうとしている安倍総理の姿を、この写真はもっともよくとらえているように思えます。私たち現代に生きる者たちは先人たちから継承すべき多くのことが残されているです。


私たちの「戦争責任」論

 キリスト教界において、よく語られる「戦争責任」論があります。そして「戦争責任」を受け継ぐことを、戦争を知らぬ世代の私たちも要求されます。しかし、ここで気をつけねばなりません。というのも、本当の意味で「戦争責任」を継承するということは、「なぜあの戦争が起こったか」「なぜ日本人は戦わねばならなかったか」、それらのことを私たちの世代が、私たちの時代を担うものとして学び受け取るということこそが大切だからです。

 先の世代を生きた人たちは、先の時代に生きた条件と背景をもってあの「戦争」を語りました。しかし私たちの世代が「戦争責任」を継承するということは、親の世代の人の語りをそっくりそのまま真似ることではありません。その考察のコピーをとることでもありません。そのようなことは、もっとも劣った行為です。それこそ「戦争責任」という一つのイデオロギーを語ることでしかないわけです。
むしろ、戦争責任を継承するというとき、私たちはそのようなイデオロギーの呪縛より解放される必要があります。先の世代の方々にはできなかったこと語れなかったことを、私たちがせねばならないのです。

 安倍総理は現代の私たちが持つべき「責任」について、以下のように語っています。

「現在と未来にたいしてはもちろん、過去に生きたひとたちに対しても責任を持つ。いいかえれば、百年、千年という、日本の長い歴史の中で育まれ、紡がれてきた伝統がなぜ守られてきたのかについて、プルーデントな(賢明な)認識をつねにもち続けること、それこそが保守の精神ではないか、と思っている。」(同上)

 私たちが「過去に生きたひとたちに対しても責任を」持ち、私たちの文化や伝統が歴史が「なぜ守られてきたのかについて、賢明な認識をもち続ける」ことを、総理は「保守の精神」としています。

 今日おいては、ネットなどにより情報収集の環境は昔よりもはるかに整っています。さらに、時間が経つことでさまざまな角度から検証がくわえられ、何が刷り込みであり、何が戦後のプロパガンダであったかも判別されるようになってきています。「南京大虐殺」「従軍慰安婦の強制連行」「731部隊の人体実験」などという多くの偽証と捏造(ねつぞう)の政治的プロパガンダに歪(ゆが)められていたことはすでに明らかです。そうであれば、私たちは私たちの条件と背景にあって、もう一度歴史を検証する必要があります。

 私たちの世代がそのようにしてちゃんと歴史を引き継いであげなければ、日本の歴史は自虐的なバイアスがかかったままで貶められたままになりかねません。しっかりと先人たちの間違いを正し、何が真実であり何が刷り込みのプロパガンダであったかも選別せねばなりません。

 この時代に生きるものには、この時代の歴史認識において責任があるのです。それが「受け継ぐ」ということです。「受け継ぐ」という作業は、まさに生きた作業です。私たちが「戦争責任」を継承するということは、そのようなことです。その意味で、私たちがやるべきことは、私たちが生きる自分たち時代を担うという責任の上にあります。

安倍晋三という総理(2)
安倍晋三という総理(1)