週の真ん中ストレート(5) 史上最高支持率総理 −田口 望−

・史上最高支持率総理とは
 なかば、この連載で恒例になりつつあるクイズです。
日本の総理大臣は衆議院本会議の首班指名選挙でえらばれますが、その際、最も多くの衆議院議員から指名され、首相になった人は誰でしょう?

 第46代内閣総理大臣片山哲です。この人こそ、吉野作造の薫陶を受けた政治家の中で最も大成した人といえるでしょうし、彼もまた熱心なクリスチャンの政治家でした。
出典:歴代首相等写真
出典:歴代首相等写真

 戦前の憲法では条文上は天皇が総理大臣を指名・任命することができることになっていたが、余ほどのことがない限り、通常、衆議院での元老の意見を参考にして第一党の党首を天皇は首相に任命し、その内閣が失敗すれば今度は野党第一党の党首の任命するということが慣例になっていました。これを「憲政の常道」といいます。1947年の総選挙は現在の日本国憲法施行直前に実施され、当時の吉田茂内閣が政権継続の正統性を問うために実施されましたが、保守政党は伸び悩み、日本社会党が善戦し、過半数に届かないまでも、日本社会党が比較第一党になりました。同党の委員長であった片山哲氏は「憲政の常道」に従って、首班指名を獲得しました。この時の首班指名では衆議院議員466名のうち420名が片山氏に投票し、次点の候補の獲得票数が1票だったため、衆議院での首班指名においての最多獲得票の記録は今もなお破られていません。

・社会民衆党→社会大衆党→無所属→日本社会党からの総理大臣
 片山が戦後最初に属したこの日本社会党は前回お話した吉野作造が関わった2つの潮流、すなわち無神論・唯物論的な社会主義を信奉する「新人会系」の人たちと、戦前、キリスト教友愛精神に基づくイギリス労働用のような民主社会主義を信奉する人たちが結党した正統「社会民衆党系」の人たちが同床異夢の状態で合同し結成された側面がありました。クリスチャン政治家片山哲はこの社会民衆党出身の政治家です。
首相官邸で連立協定について話す(右から)社会党の西尾末広書記長、国協同党三木武夫書記長、片山哲首相、民主党の芦田均総裁 ©共同通信社
首相官邸で連立協定について話す(右から)社会党の西尾末広書記長、国協同党三木武夫書記長、片山哲首相、民主党の芦田均総裁 ©共同通信社

 戦前、社会民衆党は他の無産政党と合併して社会大衆党となりますが、斎藤隆夫という政治家が「反軍演説」といって当時タブーとされていた軍部を批判する演説を国会で行います。クリスチャン政治家である安倍磯雄や片山哲は吉野作造が掲げた三反主義(反共主義、反資本主義、反全体主義)に基づいて、軍部による全体主義を看過できないとして斎藤を擁護しました。結果、戦前軍部への従属するものが大勢をしめつつあった社会大衆党内では逆に安部磯雄や片山が除名され無所属議員になる憂き目を見ます。しかし、戦後は一変して片山は日本社会党が結成されると委員長に推挙され、さらには、1947年の選挙で先述の通り首相に指名されるという大出世をみました。日本の民主化を指導していた連合国最高司令官のマッカーサーは、クリスチャンである片山の首相就任を喜び、指名当日に面会を求めると「民主主義発展のためには援助を惜しまない」と激励したといいます。 

・片山内閣の功績
 国民協同党や民主党など他党からも推挙され、国民やGHQからも強い支持を得て組閣された社会党首班の片山連立内閣でしたが、敵は野党ではなく、むしろ連立与党内にいました。特に日本社会党内の左派、新人会系の人たちから突き上げを受けて、重要法案が審議がストップ、「くず哲」とあだ名される有様で、片山内閣は一年程で総辞職に追い込まれました。とはいえ、政権の短さにも関わらず、片山政権中に行われた大改革はその後の戦後日本を21世紀の現在に至るまで規定するもので、近年に成立した10の内閣が行った功績に匹敵するほどの大改革を行っています。主なものを以下にご紹介します。
・戦前の官庁の中の官庁内務省の解体→その後何度か中央省庁再編がなされているが、現在の日本においても内務省の復活は阻止されています。
・国家公務員法の制定→現在の日本においても法案はその骨格を残したままです。
・労働省の設置→厚生省から分離して労働行政を取り扱う労働者を守る省庁が作られました。片山の肝いりで設置されました。2001年の中央省庁再編で再び厚生省と統合させられるが省庁名から「労働」の名を外すべきではないという反対論がでて2018年現在も「厚生労働省」という省庁名に「労働」の文字が入り労働行政を重視する姿勢を体現しています。
・警察制度の改革→現在も警察行政を管轄する主務大臣は「●●大臣」ではなく、「国家公安委員会委員長」とよばれます。警察組織は全国レベルにおいても都道府県レベルにおいても公安委員会という合議体の組織がおかれ、この委員会によって間接的に警察を統治するという形を取られています。時の政権が警察力を使って政敵を不当に取り締まるということができないよう民主的な運営が心がけられているのです。これは片山内閣の時に作られた仕組みによります。
・失業保険の創設→私も一度お世話になりました。現在も失業してから再就職するまでの間生活が保障されるこの失業保険制度は片山内閣の時に作られたものです。
・民法・刑法改正→長男だけが優遇されて次男坊以下は同じ子どもであっても遺産相続で不利な扱いを受ける・・・なんていうイエ制度存続の為に個人の権利が不当に差別されていた民法がほぼ現代の形に改めらえたのも片山内閣の時です。民法や刑法は「基本法」と呼ばれいわば法律の原則を決めるとても大事な法律。現在国会で審議される法律の殆どはその原則を前提として特殊な条件下の例外的な場合の取り扱いを決める、「特別法」と言われるものです。半世紀に一度変わるか変わらないかの大改革を片山政権下で断行しました。

・反共主義者片山哲
 キリスト教的人権思想を政治の世界に宥和させようとしたキリスト教民主主義者、キリスト教社会主義者として覚えられています。また、同時に彼はキリスト教精神に基づいて当時興隆した世界連邦運動にも参画しています。
片山は広く連帯することを訴えていますが、片山の伝記には次のような一文があります。
「 労働組合をはじめとして、農民組合、中小企業者、婦人、青年はもとより、文化人、インテリ層一般をふくんだ。しかし、共産党系は除いた。なぜならあくまでも暴力革命を排し、新しい平和日本、民主日本を目ざして進もうというのであった。したがって、キリスト教界、神社神道、仏教界などの宗教家の参加も大いに期待した」(「平和の父 民主政治の師 片山哲宰相」1978.9.6、高世一成編著、文化社刊、P.162) 
そう、彼もまた反共主義者でした。

・クリスチャンですらあまり知らないクリスチャンの元首相
南方熊楠を推す田辺市
南方熊楠を推す田辺市
市役所前に早川元自治相の胸像があっても片山哲を顕彰するものはない
市役所前に早川元自治相の胸像があっても片山哲を顕彰するものはない
生誕地にある顕彰碑(ここでもあくまで早川元自治相と連名で顕彰するのみである)
生誕地にある顕彰碑(ここでもあくまで早川元自治相と連名で顕彰するのみである)

 日本ではクリスチャン=禁酒禁煙 というイメージが強いのは彼の影響によるところが大きいでしょう。富士見町教会の教会員でもあった彼は生前、日本禁酒同盟の会長にも着任しています。

 写真は私が片山哲氏の生家(和歌山県田辺市)に立つ記念日の前で撮影した写真です。氏は高校卒業まで田辺市にいましたが、彼を顕彰する記念碑やモニュメントは殆どありません。私の親戚には田辺市出身者や田辺市に居を置く者を多いのですが、地元では驚くほど知名度が低く、自分の故郷や出身の高校(田辺高校)から総理大臣になった人を輩出したということを知らない人も多くいます。

 田辺市としても、片山哲元首相よりも逆に全国区ではほとんど知られていない、早川崇元自治相や生物学者「 南方熊楠」の方を全市を挙げてアピールしているという感じです。和歌山県南部が頑強な保守地盤であることと、片山が籍を置いた政党が反対党であることも少なからず影響を与えているのかも知れません。

戦後偉大な足跡を残した片山哲元首相のことを、せめて日本のキリスト者にはもう少ししられてもよいのではと思うのであります。